日中戦争での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 01:25 UTC 版)
1932年(民国21年)、ようやく夏威は広西省に戻り、南寧軍事学校校長に任命された。その後、国民革命軍第15軍副軍長となり、1933年(民国22年)に同軍軍長に昇進している。1934年(民国23年)冬、長征中の紅軍を迎撃した。1936年(民国25年)、国民革命軍の再編に伴い第48軍軍長となっている。日中戦争(抗日戦争)が勃発し、李宗仁・白崇禧が最前線に赴くと、夏は広西綏靖公署主任として留守を預かった。 1939年(民国28年)、夏威は第16集団軍総司令に任ぜられたが、同年、日本軍が広西に上陸してくるとこれを迎撃したものの敗退し、11月には南寧を失う。夏は武鳴県へ退き態勢を立て直した。1944年(民国33年)9月、日本軍が桂林へ向けて侵攻してくると、その一帯を守っていた夏の第16集団軍がこれを迎撃することになる。しかし夏は、新広西派の軍を保持するために一部軍勢のみで日本軍に対処し、結局11月に桂林を喪失して西方へ退却した。1945年(民国34年)3月、第16集団軍は廃止され、夏は第2方面軍副司令に転じた。同年5月、中国国民党第6期中央執行委員に選出されている。
※この「日中戦争での活動」の解説は、「夏威」の解説の一部です。
「日中戦争での活動」を含む「夏威」の記事については、「夏威」の概要を参照ください。
日中戦争での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 23:55 UTC 版)
日中戦争(抗日戦争)勃発後の同年10月、郭寄嶠は第9軍軍長に任ぜられ、第2戦区第14集団軍(総司令:衛立煌)に属した。同年末に第14集団軍参謀長に就任、さらに翌年には第2戦区副長官部参謀長兼前敵総司令部参謀長の地位も加えられる。1939年(民国28年)4月、衛が第1戦区長官に昇進したため、郭も第9軍軍長の地位のまま第1戦区参謀長に移った。日中戦争での郭は、衛を善く輔佐して日本軍との戦いで軍功をあげる一方、八路軍との連携も確立して劉少奇ら共産党の要人とも交渉を行っている。 1942年(民国31年)1月、衛立煌が第1戦区司令長官を罷免され、郭寄嶠は同年8月に重慶衛戍司令部参謀長、副総司令、副総司令部幹訓班主任へ転じる。翌1943年(民国32年)10月、衛が中国遠征軍司令長官に起用されたため、郭も同長官部参謀長に就任した。1944年(民国33年)、鄂陝甘辺区総司令に起用され、同年7月には第1戦区副司令長官兼参謀長となる。これにより郭は衛の下から離れることとなる。翌1945年(民国34年)2月、第5戦区副司令長官兼参謀長に移り、同年6月には中国国民党第6期中央執行委員候補に選出された。同年中に第8戦区副司令長官兼参謀長に任ぜられ、朱紹良が対応に苦慮していた新疆省三区革命問題に、張治中や呉忠信らと共に取り組んだ。
※この「日中戦争での活動」の解説は、「郭寄嶠」の解説の一部です。
「日中戦争での活動」を含む「郭寄嶠」の記事については、「郭寄嶠」の概要を参照ください。
日中戦争での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 16:41 UTC 版)
「神川丸 (特設水上機母艦)」の記事における「日中戦争での活動」の解説
「神川丸」は1937年9月17日付で日本海軍に徴傭され、翌9月18日に特設水上機母艦として入籍。佐世保鎮守府籍となる。簡単な艤装工事を行って中国戦線に赴き、第三艦隊(長谷川清大将・海軍兵学校31期)に属して10月より中支方面で杭州湾上陸戦や南京攻略戦などを支援。12月からは第三航空戦隊所属艦として南支方面へ移動し、翌1938年(昭和13年)1月にかけて補給路遮断作戦に参加。水上機母艦「神威」の水上機隊と組んで軍用列車や船艇を繰り返し爆撃して多大な戦果を挙げた。この頃、艦内に酒保設置の申請が出される。やがて戦線が奥地へ移動したため水上機隊の作戦もとりあえず終了し、12月15日付で特設航空機運搬艦へ類別変更となる。 1939年(昭和14年)2月以降は海南島攻略作戦後の掃討作戦にも参加。9月17日、北部仏印進駐(IC作戦)に参加して、重巡洋艦「鳥海」や第二航空戦隊などと共に第二遣支艦隊を編成し、「神川丸」の九四式水上偵察機や九五式水上偵察機は洋上哨戒や日本陸軍の地上支援に活躍した。11月13日、重巡洋艦「足柄」水上機隊、水上機母艦「能登呂」を指揮下に入れ南寧市からの撤退作戦に従事した。作戦中の11月15日付で再度特設水上機母艦となり、支那方面艦隊(及川古志郎中将・海兵31期)に属して南支方面を転戦した。月平均20回、延べ120機が出動し、45日ごとに台湾の高雄に入港して補給、再出撃を繰り返していたという。1939年11月から1年間にかけて本艦は九五式水上偵察機4喪失・8名戦死と引き換えに、敵兵1万名を攻撃、戦車6両爆砕、自動車113両破壊、牛車725両損傷、ジャンク216隻を撃沈、倉庫357棟破壊または炎上、橋梁39大破という戦果を挙げた。
※この「日中戦争での活動」の解説は、「神川丸 (特設水上機母艦)」の解説の一部です。
「日中戦争での活動」を含む「神川丸 (特設水上機母艦)」の記事については、「神川丸 (特設水上機母艦)」の概要を参照ください。
日中戦争での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 03:18 UTC 版)
日中戦争が勃発すると、張道藩は前線の将兵を鼓舞・慰労するために、劇団や合唱団の派遣などを行っている。1938年(民国27年)、陳立夫が国民政府教育部部長と党中央社会部長を兼任すると、張が教育部常務次長、党中央社会部次長となった。また、中央宣伝部文化運動委員会主任委員にも任ぜられたが、これは抗日宣伝だけでなく、郭沫若率いる文化工作委員会への対抗も任務としている。翌年9月には陳兄弟の推薦で中央政治学校教育長となり、校長の蔣介石を補佐した。 1942年(民国31年)、蔣介石・宋美齢夫妻のインド訪問に張道藩も随行し、ジャワハルラール・ネルーとの会談で書記を務めた。帰国後の12月、張は党中央宣伝部長に昇進し、翌年9月には党海外部部長に移る。1944年(民国33年)には、対日戦の前線となった貴州省へ赴き、戦災民の救済事業に従事した。その翌年4月に、侍従室第2処副主任に起用され、陳布雷を補佐して機密事案の主管にあたっている。
※この「日中戦争での活動」の解説は、「張道藩」の解説の一部です。
「日中戦争での活動」を含む「張道藩」の記事については、「張道藩」の概要を参照ください。
日中戦争での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 14:49 UTC 版)
騰衝県立中学を卒業後の1925年(民国14年)、黄埔軍官学校第4期歩兵科に入学した。卒業後は国民革命軍第3軍(軍長:朱培徳)軍官教育団中尉排長として配属されている。南昌起義では所属部隊が蜂起したが、李弥は参加を拒否して離脱、南京に逃れた。その後、四川省での軍務等を経て、1930年(民国19年)に第59師第350団上校団長に昇進している。 1933年(民国22年)から1935年(民国24年)にかけて、李弥は中国共産党(紅軍)の第5次掃討作戦や長征部隊の追撃に従事した。1936年(民国25年)、江西省県政人員訓練班で訓練を受け、訓練期間満了後に同省の瑞昌県で県長を務めた。その後、同省の寧都県に移り、同県保安副司令兼保安第16団団長となっている。 日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、李弥は第36軍新編第23師第1旅旅長に任ぜられ、前線に出撃する。1939年(民国28年)、第36軍第5師副師長に昇進し、第1次長沙会戦や桂南昆崙関会戦に参戦した。翌年には棗宜会戦に参戦し、この時の軍功で第8軍栄誉第1師師長に昇進している。1942年(民国31年)、第8軍副軍長兼湖南省芷綏師管区司令に任ぜられた。1944年(民国33年)5月、第8軍が中国遠征軍に編入されたことに伴い、雲南省西部に移駐する。7月、軍長の何紹周と共に竜陵県松山高地を攻略、日本軍を殲滅している。この軍功により、翌1945年(民国34年)1月、李は第8軍軍長に昇進した。
※この「日中戦争での活動」の解説は、「李弥」の解説の一部です。
「日中戦争での活動」を含む「李弥」の記事については、「李弥」の概要を参照ください。
日中戦争での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 07:27 UTC 版)
日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、1937年(民国26年)に商震は第1戦区第20集団軍総司令兼第32軍軍長に任ぜられ、平漢線で日本軍を迎撃したが、抗し得ずに敗退している。1938年(民国27年)、第9戦区に配属され、武漢会戦に参戦した。1939年(民国28年)3月、第9戦区副司令長官に昇進し、長官の薛岳を補佐して、第1次・第2次の長沙会戦を戦っている。10月、第6戦区副司令長官に転じ、1940年(民国29年)2月には同戦区長官に昇進して、衡陽に駐留した。 同年中に商震は重慶に召還され、中央軍事委員会弁公庁主任に任ぜられた。1941年(民国30年)10月、中央軍事委員会外事局局長を兼任する。1943年(民国32年)、蔣介石に随従してカイロ会談に出席した。1944年(民国33年)3月、中国駐米軍事代表団団長としてアメリカに派遣され、大統領フランクリン・ルーズベルトに中国の軍事情勢を報告している。
※この「日中戦争での活動」の解説は、「商震」の解説の一部です。
「日中戦争での活動」を含む「商震」の記事については、「商震」の概要を参照ください。
日中戦争での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 16:36 UTC 版)
1937年、少将に任じられ、装甲兵団長となった。同兵団は上海防衛と南京防衛に参加した。1939年、第5軍が編成されるとその軍長となり、第一次長沙会戦(英語版)と崑崙関の戦いで活躍した。1939年には雲南に進駐し、昆明警備総司令を務める。 1942年、日本軍がビルマに進攻すると(ビルマの戦い)、蔣介石は英米軍と協力して「援蔣ルート」を確保するために遠征軍(司令官:ジョセフ・スティルウェル中将)を派遣した。杜聿明はその副司令官として3月中旬から6月上旬にかけてのビルマにおける戦闘に従事した。結局この戦闘で中国軍は10万人の将兵の半数が死傷するという悲惨な敗北を喫するが、杜聿明の蔣介石に対する盲目的な服従が影響したと見なされている。しかし、杜聿明は蔣介石の熱心な支持者であったため、その失敗を罰せられることはなかった。1945年2月、中将に昇進。
※この「日中戦争での活動」の解説は、「杜聿明」の解説の一部です。
「日中戦争での活動」を含む「杜聿明」の記事については、「杜聿明」の概要を参照ください。
- 日中戦争での活動のページへのリンク