日中戦争での活躍、雲南省政府主席就任
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「盧漢」の記事における「日中戦争での活躍、雲南省政府主席就任」の解説
1937年(民国26年)、日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、盧漢は国民革命軍第60軍軍長に任命された。そして李宗仁配下として台児荘戦役などに参加し、活躍した。以後、第30軍団軍団長、第1集団軍副総司令、第1集団軍総司令を歴任する。戦争末期には第1方面軍総司令に就任した。1945年(民国34年)8月に日本が降伏すると、盧漢は第1方面軍を率いてベトナム入りし、土橋勇逸率いる日本軍の降伏受諾事務を担当した。 同年10月に蒋介石は、「雲南モンロー主義」に基づき反中央的な活動をする竜雲を、雲南省政府主席から罷免した。当初の蒋介石は、竜の後継者と目されていた盧漢の主席就任を望まなかった。そのため、中国国民党長老で雲南省出身の李宗黄を後任にあてようとした。 しかし、李宗黄は雲南省内の各階層から人望が無く、省内の激しい反発により混乱を惹起した。そのため蒋介石は止むを得ず、そのまま盧漢を後任とした。ハノイから昆明に帰還した盧は、12月1日に就任宣誓を行い、以後4年間に渡り雲南省を統治する。盧の統治傾向も竜同様に「雲南モンロー主義」的であった。それにより、蒋ら国民政府中央と暗闘しながら独自路線を模索していく。さらに統治の終盤には、中国共産党や各種民主党派と秘密裏に連携した。 1949年(民国38年)12月9日、盧漢は中華人民共和国に帰順することを宣言した(昆明起義)。まもなく顧祝同の命令を受けた国民党軍が昆明を攻撃してくる。盧はこれを凌ぎ、1950年2月に中国人民解放軍を迎え入れた。 同年3月、盧漢は雲南省軍政委員会主任に就任している。その後、西南行政委員会副主任、全国人民代表大会常務委員、中国人民政治協商会議全国委員会常務委員、中国国民党革命委員会中央常務委員、国防委員会委員などを歴任した。 1974年5月13日、北京で死去。享年80(満79歳)。その5日後に追悼会が開かれている。
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