日中戦争での警急戦備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/25 09:58 UTC 版)
「鶏知重砲兵連隊」の記事における「日中戦争での警急戦備」の解説
1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件により日中戦争が始まると、連隊は警急戦備をとるよう命じられ、対馬要塞司令部の指揮下で防空監視の体勢をとった。8月21日に厳原防空監視隊本部に65人の将兵を、比田勝・佐須奈・佐賀・佐保・小船越・鶏知・鹿見・小茂田・浅藻の防空監視哨に兵士を2人ずつ配置した。監視哨の配置はその後変更があった。この監視隊ははじめ重砲兵連隊の将兵からなっていたが、翌1938年(昭和12年)には8人を本部に残して引き上げることになり、12月1日に長崎県に業務を移管した。 また、1937年(昭和12年)8月26日に高射砲2隊、照空隊3隊、計116人の防空部隊を編成して送り出し、下関要塞司令官の隷下に入れた。この部隊は、12月から壱岐要塞防空部隊の訓練にあたった。期間中には派遣者と帰還者の交替が何度かあり、翌1938年(昭和13年)12月11日に帰還を命じられ、12日に109人で戻ってきた。 警急戦備は1939年(昭和14年)1月25日に解除された。 1939年(昭和14年)11月10日に、連隊には436人の将兵が属していた。 1940年(昭和15年)2月6日に西部防空管区で8日から防空を行うよう命令があったが、3月31日に解除された。 この年8月に、連隊の通称号が西部第77部隊と定められた。
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