日中戦争での転戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/07 02:48 UTC 版)
1937年(民国26年)に日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、羅卓英は第16軍団軍団長に任命され、左翼軍の一角として上海で日本軍迎撃に参加した(第2次上海事変、淞滬抗戦)。羅は善戦したが最後は防衛線を破られて無錫方面へ退却している。11月、羅は第15集団軍総司令に任命され、さらに南京衛戍司令長官唐生智を補佐する副司令長官も兼任することになった。しかし、上海の戦いですでに羅の軍は酷く損耗しており、日本軍を撃退する力は残っていなかった。南京陥落後、羅は蘇皖浙辺区へ部隊を退却させ、しばらくゲリラ戦を展開している。1938年(民国27年)1月、第19集団軍総司令に任ぜられ、6月からは武漢会戦に参戦し、9月には陳誠の後任として武漢衛戍司令を務めた。 1939年(民国28年)3月、羅卓英は第19集団軍を率いて南昌会戦に参戦し、第9戦区前敵総指揮に任ぜられた。当初は正面から岡村寧次らが率いる日本軍を迎撃し一定の戦果もあげたが、最終的には南昌を失陥し損耗も重大であったため、ゲリラ戦へと作戦を変更している。その後も第1次長沙会戦などにも参戦し、1940年(民国29年)2月に第9戦区副司令長官に昇進した。同年12月には第3次長沙会戦に参戦し、南方追撃軍総司令として周辺の日本軍掃討に従事している。 羅卓英の日中戦争での指揮は蒋介石からも高く評価された。そのため、1942年(民国31年)4月、連合国軍との共同作戦に従事する中国遠征軍(中国語版)で第1路司令長官に抜擢され、ジョセフ・スティルウェルと共にミャンマー方面で日本軍を相手に指揮をとることになる。しかし日本軍が雲南省騰越(現在の騰衝市)を攻略したために退路を切断されてしまい、羅は日本軍の封鎖を突破して退却したが損害は大きかった。10月、遠征軍第1路司令長官部は廃止され、新たにインドで中国駐印軍総指揮部が成立し、スティルウェルが総指揮、羅が副総指揮となる。しかし、ミャンマーでの作戦失敗などが遠因となり、スティルウェルと羅の関係は不穏なものとなり、結局数か月で羅は辞任、重慶に戻った。 帰還後の1943年(民国32年)5月、羅卓英は軍令部次長に任ぜられ、さらに軍事委員会桂林幹部訓練団教育長に移る。その後も軍事委員会督訓処主任、全国知識青年従軍編練総監を兼任するなど、青年への抗日教育・動員に従事した。1945年(民国34年)、中国国民党第6次全国代表大会で中央執行委員に当選している。
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