モンロー‐しゅぎ【モンロー主義】
モンロー主義
- 女学生間で『自分勝手な人』の意味に用ふ。即ち自国のことは自国でする他の干渉はいらぬといふ米国のモンロー主義から来たもの。〔学生〕
- 女学生間で「自分勝手な人」の意味に用ふ。即ち、自国のことは自国でする、他の干渉はいらぬといふ。米国のモンロー主義から来たものである。
分類 学生
モンロー主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/30 10:16 UTC 版)
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モンロー主義(モンローしゅぎ、英: Monroe Doctrine)は、アメリカ合衆国がヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を提唱したことを指す。
第5代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・モンローが、1823年に議会で行った7番目の年次教書演説で発表した[1]。モンロー宣言と訳されることもあるが、実際に何らかの宣言があったわけではないので、モンロー教書と訳されることも多い。この教書で示された孤立主義を掲げる外交姿勢がその後のアメリカ外交の基本方針となった。原案はアメリカ合衆国国務長官ジョン・クィンシー・アダムズが起草した。
年次教書の概説
モンロー主義のきっかけとなった年次教書は、1823年12月2日に議会へ送られた。内容の大意は次のとおり[2]。
- ヨーロッパ諸国の紛争に干渉しない。
- 南北アメリカに現存する植民地や属領を承認し、干渉しない。
- 南北アメリカの植民地化を、これ以上望まない。
- 現在、独立に向けた動きがある旧スペイン領に対して干渉することは、アメリカの平和に対する脅威とみなす。
背景と狙い
19世紀前半、ラテンアメリカ各地で独立運動が起こった。19世紀初頭のナポレオン戦争(特に半島戦争)は、スペインのアメリカ植民地に対する支配力を弱め、中南米諸国は次々に独立へと動き出していった。これに対しスペイン本国は、中南米植民地での独立運動を鎮圧しようとした。ナポレオン失脚後のヨーロッパは自由主義、ナショナリズムを敵視する保守反動的なウィーン体制下にあったため、この体制を主導していたオーストリアの政治家メッテルニヒは、独立運動への干渉を図った。また、独立運動を支持する姿勢をみせていたイギリス(おもに自由党)の狙いは、ラテンアメリカに工業製品を輸出し、農産物や資源を輸入して経済力を高めることであった。こうした動きを牽制するため、モンローが年次教書において、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の相互不干渉を示すに至ったのである。
南北アメリカは将来ヨーロッパ諸国に植民地化されず、主権国家としてヨーロッパの干渉を受けるべきでない旨を宣言した。それはさらにヨーロッパの戦争と、ヨーロッパ勢力と植民地間の戦争に対してアメリカ合衆国は中立を保つが、植民地の新設あるいはアメリカ大陸の独立国家に対するいかなる干渉もアメリカ合衆国への敵対行為とみなすという意図を述べたものであった。
合衆国にとって、もう一つの大きな懸念材料は、アラスカ(当時はロシア領)からロシアが太平洋沿いに南下政策を図ることであった。そのため、この教書はロシアのアメリカ大陸進出に対する牽制という狙いも含んでいた。
冷戦下でのモンロー主義
1934年に第一次世界大戦後のバナナ戦争を終結させたフランクリン・ルーズベルト大統領によってラテンアメリカ諸国に対して内政干渉を行わないとする善隣政策が行われたが、第二次世界大戦後の1948年3月12日に発効した米州相互援助条約は冷戦構造を反映するものとなった。1951年12月13日に発効したボゴタ憲章(米州機構)によって、ラテンアメリカ諸国を軍事的にも経済的にも西側陣営に組み込んでいった。
1958年にはアメリカ合衆国の極右的な半秘密組織としてロバート・ヘンリー・ウィンボーン・ウェルチ・ジュニアを中心にジョン・バーチ・ソサエティが設立され、対外援助廃止やNATO脱退、国連反対など孤立主義的な運動を展開した。
第二次大戦後は西欧や日本が覇権運営能力を失いアメリカの庇護下に入ったため、主に相手はソ連などの共産勢力となった。冷戦時代には以下のような中南米各国への棍棒外交的な介入が行われた。
冷戦後のモンロー主義
2016年アメリカ合衆国大統領選挙に当選したドナルド・トランプ大統領はモンロー主義的・孤立主義的と選挙中から評されており、2018年に国連総会でグローバリズムを批判して「モンロー大統領以来、アメリカ合衆国は公式な政策として、この半球や自国の問題における外国の干渉を拒否してきた」と演説した[3]。
トランプ政権で国家安全保障問題担当大統領補佐官に起用されたジョン・ボルトンは中南米諸国への介入に積極的な姿勢から公然とモンロー主義を掲げ、2019年3月に「我々はモンロー主義という言葉を使うことを恐れない」と述べており[4]、同年4月にはマイアミで行われたピッグス湾事件関係者の集会で「今日、我々は万人の前で誇りをもってモンロー主義は健在であると宣言する」と演説した[5][6]。
その他
モンロー主義は、アメリカ合衆国の孤立主義政策の代名詞とされ、日本でも行政施策などで、特定団体が他者と協調しない独自の行為を「○○モンロー主義」と称することが多い。代表的なものにアジア・モンロー主義、市営モンロー主義などがある。しかし、モンロー主義という用語はアメリカ合衆国による中南米への介入主義的な姿勢に対して用いられることもある[7]。日本でも比喩的表現が多々見られる(例:アジア・モンロー主義)。
出典
- ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日) 2020年12月2日閲覧。
- ^ 高橋均『ラテンアメリカの歴史』山川出版社
- ^ “米国トランプ氏「グローバリズムを拒絶」国連演説で強調”. 毎日新聞 (2018年9月26日). 2019年5月31日閲覧。
- ^ “John Bolton: 'We're not afraid to use the word Monroe Doctrine'”. Washington Examiner (2019年3月3日). 2019年5月31日閲覧。
- ^ “John Bolton and the Monroe Doctrine”. エコノミスト (2019年5月11日). 2019年5月31日閲覧。
- ^ “John Bolton Reaffirms America’s Commitment to the Monroe Doctrine With New Sanctions”. オブザーバー (2019年4月17日). 2019年5月31日閲覧。
- ^ “国連安保理が緊急会合 ベネズエラ情勢、米ロが批判合戦”. 朝日新聞 (2019年1月27日). 2019年5月31日閲覧。
関連項目
モンロー主義
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「ジェームズ・モンロー」の記事における「モンロー主義」の解説
詳細は「モンロー主義」を参照 ナポレオン戦争が1815年に終わった後は、ラテンアメリカ各地でスペインあるいはポルトガルの支配に対して革命が起こり、独立を宣言していた。アメリカ人はこの展開を共和制精神が実証されたこととして歓迎した。1819年にフロリダの領有が確保されるまで、アダムズはこの見解を公式に認めることを遅らせた。ロシアが北緯51度線まで北アメリカ太平洋岸の領有権を主張し、同時にヨーロッパ諸国がラテンアメリカ諸国を植民地状態に戻す圧力をかけたことで、帝国主義の侵略による脅威が強くなっていった。 1822年3月、モンローは連邦議会に対し、ラプラタ連合州(今日のアルゼンチン)、チリ、ペルー、コロンビア、およびメキシコに安定した恒久的政権が樹立されたことを告げた。アダムズはモンローの監督下でこれら新興国に派遣した公使(大使)に宛てて指示書を書いた。それは各国の共和制を支持し、最恵国待遇で通商を行う条約締結を求めるアメリカ合衆国の政策を宣言していた。アメリカ合衆国はヨーロッパ諸国のものとは基本的に異なる経済と政治制度の発展のためにアメリカ大陸にまたがる会議体を支援するとしていた。ヨーロッパとははっきり異なる「アメリカン・システム」という基調はラテンアメリカに対するモンローの政策の基本信条だった。アメリカ合衆国が各国を最初に認知し、「自由と人道主義」を支持していることで世界の他の地域に対し規範を示したことを誇っていた。 1823年12月2日、議会における教書演説では、後にモンロー主義と呼ばれることになるものを正式に表明した。モンローは、南北アメリカは将来ヨーロッパ諸国に植民地化されず、主権国家の国内事情にヨーロッパ諸国から干渉されないことを宣言した。さらにアメリカ合衆国がヨーロッパでの戦争、およびヨーロッパ列強と植民地間の戦争について中立を保つ意思があるが、新しく植民地を作ることあるいはアメリカ大陸の独立国家に干渉することはアメリカ合衆国に対する敵対行為であると考える事も声明した。 これは歴史におけるモンローの最も有名な業績であるが、原稿はイギリスとの協調原則を考案した国務長官ジョン・クィンシー・アダムズによって起草された。モンローとアダムズはアメリカが新興国を認知することが軍事的な干渉とスペインの権力を復活させることから各国を守るものではないと認識していた。1823年10月、在イギリスアメリカ合衆国特命全権公使リチャード・ラッシュがイギリスの外務大臣ジョージ・カニングはアメリカとイギリスが共同でヨーロッパの干渉に対する反対を宣言することを提案していると忠告した。イギリスはその強力な海軍力でラテンアメリカの再征服にも反対し、アメリカ合衆国には「不干渉」政策の宣言に加わるよう提案した。イギリスの主導権に触発されてモンローはアメリカの指導者達と相談し、続いてモンローとアダムズが計画を立てた。元大統領のジェファーゾンやマディソンはモンローに提案を受けるよう助言したが、アダムズは「イギリスのマン・オブ・ウォー(戦艦)の後に続く小船として現れるよりも、率直にロシアやフランスに対して我々の原則を表明するのがより腹蔵の無いものになる」と助言した。モンローはアダムズの助言を容れた。ラテンアメリカだけではなく、ロシアも太平洋岸を南進すべきではないとされた。「アメリカ大陸は各国が採用し維持している自由と独立した状態によって、如何なるヨーロッパ列強によっても将来的に植民地化されるような対象とは考えられるべきではない」と述べた。 1823年、モンロー主義は南アメリカの元スペイン植民地に対するよりも、北アメリカにおけるロシア人に対して強く向けられた。その結果はイギリス海軍の支援の下にアメリカ孤立主義となった。モンロー主義は、「西半球はもはやヨーロッパの植民地の対象ではない」とするアメリカ合衆国の考えを示した。この半球で今後政治的支配をしようとすることや、既に存在する国家の独立を侵すことは敵対行動と見なし、世界には2つの異なる両立しない政治制度が存在することになった。これによってアメリカ合衆国はヨーロッパの事情に干渉しないこととし、ヨーロッパ諸国にはアメリカ大陸の事情に干渉しないことを要求した。この先、ヨーロッパからの重大な干渉はほとんど無くなった。
※この「モンロー主義」の解説は、「ジェームズ・モンロー」の解説の一部です。
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