第一次上海事変と日中戦争での活動
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「呉鉄城」の記事における「第一次上海事変と日中戦争での活動」の解説
1932年(民国21年)1月6日、呉鉄城は上海市長兼淞滬警備司令に任ぜられた。このとき、上海で日本軍との衝突が目前に迫っており、27日に駐上海領事から最後通牒を受けた呉は、抗日組織の取り締まりを開始し、日本側に謝罪を通知するなどした。しかし、結局は蔣光鼐・蔡廷鍇率いる第19路軍と日本軍との衝突が発生した(第一次上海事変、淞滬抗戦)。第19路軍は懸命に抗戦するも最後は撤退し、5月5日には上海停戦協定が結ばれた。この後も、呉は引き続き上海市長にとどまっている。 1937年(民国26年)3月、広東省政府主席に異動する。翌年10月、広州市は陥落し、連県に省政府を移転させた。翌年12月、省政府主席を免ぜられ、重慶に召還されている。以後、香港・マカオの国民党党務に従事し、1940年(民国29年)には党中央海外部長に任ぜられた。この際には、東南アジアを外遊し、華僑を相手に抗日宣伝を行い、資金提供を呼びかけている。翌年春、重慶に戻り、南洋華僑協会・国民外交協会理事長に任ぜられた。後には党中央秘書長もつとめている。
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