第一次世界大戦 1914年–1920年
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「アメリカ合衆国の外交史」の記事における「第一次世界大戦 1914年–1920年」の解説
現在のアメリカ合衆国の外交政策の大部分はウッドロウ・ウィルソン大統領が決めた。ウィルソンは1913年にホワイトハウスに入る前に外国事情にほとんど興味が無いことを表していた。その重要な助言者は国務長官ではなくて、多くのトップレベル使節として派遣されていたエドワード・ハウス「大佐」だった。1914年に第一次世界大戦が始まったとき、アメリカ合衆国は中立を宣言し、平和の使者として動いた。中立国としての権利を主張して、民間会社や銀行が交戦している双方に物資を売りまたは貸付を行うことを認めさせていた。イギリスがヨーロッパの海岸を封鎖したので、ドイツに物資を売ったり貸付を行うことはほとんどできず、ほとんど連合国に対するものとなった。ウィルソン大統領は、ドイツがアメリカの中立を犯すことを激しく非難した。その最も有名なものが1915年のルシタニア号に対する魚雷攻撃であり、128名のアメリカ市民を殺したが、実際には軍需品を運んでいた可能性があった。ドイツは繰り返し、Uボートによる攻撃を止めることを約束したが、1917年初期にイギリスに無差別潜水艦攻撃を掛けるとした時にそれも難しくなった。ルシタニア号事件の後でウィルソンは国民に参戦の了解を求め、1917年初期に中央同盟国に宣戦布告した。この戦中、アメリカ合衆国は連合国と公式な条約で同盟していたわけではなかったが、軍事協力によって1918年半ばにはアメリカの貢献が重要なものになったことが理解された。ドイツによる春の攻勢が失敗した後、アメリカの新鮮な軍隊がフランスに1日1万名も上陸し、ドイツは望みを絶たれて降伏した。1918年1月に発表されたウィルソンの十四か条の平和原則と共にアメリカ合衆国は、現在に至るまで軍事、外交および情報宣伝で主導権を持ち続けている。 1919年、ヴェルサイユでの講和会議でウィルソンはその十四か条の平和原則を実行するために様々な妥協点を模索した。イギリス、フランスおよびイタリアが要求した賠償金請求は認めざるを得なかった。ドイツは連合国が戦争に使った全費用を賠償金として支払うこととされ、屈辱的なやり方で罪を認めさせられた。後世の評論家から見ればあまりに過酷で不公正なものとなるドイツへの制裁だった。ウィルソンは主目的だった国際連盟を成立させた。それは将来起こりうる紛争を大きな戦争になる前に解決させられることが期待された。しかし、ウィルソンは、1918年総選挙後に議会を支配しており、宣戦布告に対する議会の権限を守る改訂を要求していた共和党との相談を拒否していた。アメリカ合衆国上院が外国との条約を批准するためには出席議員の3分の2以上の賛成を要するという規定があり、ヴェサイユ条約も共和党の修正案も通らず、アメリカ合衆国が国際連盟に加盟することは無かった。アメリカ合衆国は様々なヨーロッパ諸国と別の条約を締結した。それでもウィルソンの理想主義と民族自決の要求は世界中の民族主義に影響し、国内にあってはアメリカの庇護の下に民主主義と平和を広げるという「ウィルソン主義」と呼ばれるその理想主義的構想が、それ以降のアメリカ外交政策の多くに大きな影響を残すことになった。実際にはウィルソンの構想が次の大戦後に結実した。
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