後世の評
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陳寿の評:「度量が大きく強い意志を持ち、おおらかな心をもって礼儀正しく人に接し、人物を良く見極めて、ふさわしい待遇を与えた。それらは前漢の高祖(劉邦)に通じ、英雄の器を備えていたといえよう。国のその後を諸葛亮に全て託すのに際して、何らの疑念を抱かなかったことは、君臣の公正無私な関係を現すものとして、永遠に手本とすべき事例である。好機を得るための機知や、行動の根幹をなす戦略では、魏武(曹操)に及ばなかったため、勢力の基盤となる領土も、その才能の差に準じて狭かった。しかし、挫折して人に屈しても諦めることなく、最終的には誰の下にもおらず独立したのは、彼らの器量を考えた時、自分をいつまでも許容し続けてくれるような人間だとは到底思えないがためにそうしたのである。単純に自分の利益だけを考えてのことではなく、自分にふりかかった災難を避け、殺されないようにするためだったと言えよう」(『蜀書』「先主伝」)。 習鑿歯はいう。先主は顛倒し困難に陥ったときであっても、信義をますます明らかにし、状況が逼迫し事態が危険になっても、道理に外れぬ発言をした。景升(劉表)の恩顧を追慕すれば、その心情は三軍を感動させ、道義にひかれる人々に慕われ(後についてこられ)れば、(見捨てることなく)甘んじてともに敗北した。彼が人々の心に結びついた経過を観察すれば、いったい、どぶろくを与えて凍えている者を慰撫し、蓼(にがい)を口に含み、民の病気を見舞った程度のことであろうか。彼が大事業を成し遂げたのも当然であろう。
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後世の評
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スタンダールは本作を次のように叙述している。「およそ12歳の少年の等身大のキューピッドは…大きな褐色の翼を身にまとい、あまりに写実的に、そして力強い色遣い、明確性、鮮明さをもって描かれていて、あたかも生きているかのようである。」 1649年から51年ころにローマを訪れたイギリス人旅行者リチャード・シモンズは、本作のキューピッドは「彼[カラヴァッジョ]の脇に寝ている(laid with him)自分の子供か下男の身体と表情」を写したものだと評している(当時のlaid with himという表現は、単に同居しているという意味であったことに注意)。 イタリアの美術史家ジャンニ・パッピは、自身の理論に基づき、この絵に表れる人物が、カラヴァッジョの死のあと活躍する、チェコ・デル・カラヴァッジョと同一人物ではないかとした。この説については反論もあるが、チェコ・デル・カラヴァッジョが、フランチェスコ・ボネリという画家と同一人物であろう、とするパッピの説には賛同が多い。このチェコという人物は、カラヴァッジョの作品の画中人物としてしばしば登場し、例えば『聖パウロの回心』(1600年-1601年)に登場するキリストを支える若い天使や、『聖マタイの殉教』(1599年-1600年)でマタイの手に聖人の徴を書き込もうとする天使(巻き毛の頭のてっぺんが見えるだけであるが)、『イサクの犠牲』(1603年)のまさに首を切られんとするイサク、『ダヴィデとゴリアテの首』(1605年-1606年)のダヴィデ(ゴリアテはカラヴァッジョといわれる)、また現在ローマ、カピトリーニ美術館所蔵の『洗礼者ヨハネ』のヨハネなどがそうだといわれている。
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