後世の見解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 14:08 UTC 版)
近代の歴史家は、ポチョムキン公が本当に張りぼての村を作ったのかどうかについて見解が分かれている。偽物の村という逸話は、一般には大げさな話と受け止められており、ポチョムキンに敵対する勢力が流した悪意のある噂という見方もある。ポチョムキン公は実際に黒海北岸やクリミアの開発に多大な努力をしており、ドニエプル川沿岸の農民たちに対して皇帝一行の船が通る前に川岸を整備するよう命じたのが、このような噂になってしまったとする。英語による最も包括的なポチョムキン公の伝記を著した サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ(Simon Sebag-Montefiore) によれば、夜に荒地を船で下る一行を喜ばせるために、鮮やかに燃えるかがり火や偽物の集落などで川岸を飾り立てた、などという話は架空のものにすぎないという。 19世紀ロシア研究の権威である アレキサンドル・パンチェンコ(Aleksandr Panchenko )は当時の報告書や回顧録などの資料を用い、「ポチョムキン村」は伝説にすぎないと結論した。彼はポチョムキンは確かに街や村々を装飾したが、それが装飾であることは隠さなかったとしている。 ポチョムキンは実際に黒海北岸やクリミアで要塞建設、戦列艦建造、村落の振興などを図っており、皇帝や側近や外交官らの一行は実際の成果を見てポチョムキンに対する信頼を確かなものにした。このため、ポチョムキン自身は「ポチョムキン村」などは作らなかったと言える。 ただし、他の言い伝えによれば、1787年にエカチェリーナ2世がクリミア視察から帰る途中にトゥーラを通った際、知事のミハイル・クレチェトニコフ(en:Mikhail Krechetnikov)は、凶作を隠すためにこの種の張りぼてで皇帝一行をだまそうとしたとされる。
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