後世の臨書説
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『円珍勅書』は道風の直筆とするのが通説だが、湯山賢一奈良国立博物館館長(当時)は、平成21年(2009年)3月31日に発行した編著書『文化財と古文書学 筆跡編』において、通説を退けて後世の臨書であるとする見解を発表し、それに先立つ3月28日付の『読売新聞』(東京版)夕刊にはスクープ記事が掲載された。湯山は、古文書学の見地から本書を調査した結果、 同書が平安期の公文書にしては行書体であり過ぎること。 勅書後半の署名の上に記された官位の文字が極めて小さいこと。 円珍勅書の前年(延長4年)に出された別の文書の「天皇御璽」の内印と比べて「天」や「御」の字形が異なっており、押印が雑であること。 和紙の行間に折り目を付けて広げた跡があり、折り目は一行ずつまっすぐに書き写すために付けたとみられること、また末尾の署名が全て本文と同筆であること。 などを挙げ、「当時の勅書・公文書の形式としてはありえない」と指摘している。その上で、薄縹色の染紙が11世紀中頃まで朝廷の公文書として使われていた(その後は紺紙に変わっていく)ことから、『円珍勅書』は遅くとも同時期頃までに朝廷中枢部の中務省で作成された紙を用いた「写し」であり、道風の行書体の豊潤さを後世に伝えるために作成されたものと考えられるとしている。 石川九楊も、「書きぶりからはもっと時代は下がるようにも思える」と述べ、延長5年の書写年に疑問を示している。 文化庁は、「学説の一つが発表されたという現段階で、文化財の価値判断に対するコメントはできない」としながらも、「『円珍勅書』は国宝(美術工芸品)の中でも現在は『古文書』部門での指定となっており、仮に道風の自筆でなかったとしても古文書としての価値が下がることはない」としている。 なお、湯山説の前にも川瀬一馬が昭和18年(1943年)に通説への異論を示している。川瀬は、『円珍勅書』は道風の書風をよく伝えているものの、それよりも新しい尊円法親王の時代の影響が感じられると、湯山説よりも成立時期をさらに下げており、後の昭和55年(1980年)には、宋代書風の影響も入っているように感じられ、あるいは尊円が臨書したものではないかと推測している。
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