後世の臨書説とは? わかりやすく解説

後世の臨書説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 02:37 UTC 版)

智証大師諡号勅書」の記事における「後世の臨書説」の解説

円珍勅書』は道風の直筆とするのが通説だが、湯山賢一奈良国立博物館館長当時)は、平成21年2009年3月31日発行した編著書文化財古文書学 筆跡編』において、通説退けて後世臨書であるとする見解発表し、それに先立つ3月28日付の『読売新聞』(東京版夕刊にはスクープ記事掲載された。湯山は、古文書学見地から本書調査した結果同書平安期公文書にしては行書体であり過ぎること。 勅書後半署名の上記され官位文字極めて小さいこと。 円珍勅書前年延長4年)に出され別の文書の「天皇御璽」の内印比べて「天」や「御」の字形異なっており、押印が雑であること。 和紙行間折り目付けて広げた跡があり、折り目一行ずつまっすぐに書き写すために付けとみられること、また末尾署名全て本文同筆であること。 などを挙げ、「当時勅書公文書形式としてはありえない」と指摘している。その上で薄縹色の染紙11世紀中頃まで朝廷公文書として使われていた(その後紺紙変わっていく)ことから、『円珍勅書』は遅くとも同時期頃までに朝廷中枢部の中務省作成された紙を用いた写し」であり、道風の行書体豊潤さを後世伝えるために作成されたものと考えられるとしている。 石川九楊も、「書きぶりからはもっと時代は下がるようにも思える」と述べ延長5年書写年に疑問示している。 文化庁は、「学説一つ発表されたという現段階で、文化財価値判断対すコメントできない」としながらも、「『円珍勅書』は国宝美術工芸品)の中でも現在は『古文書部門での指定となっており、仮に道風の自筆でなかったとしても古文書としての価値が下がることはない」としている。 なお、湯山説の前に川瀬一馬昭和18年1943年)に通説への異論示している。川瀬は、『円珍勅書』は道風の書風をよく伝えているものの、それよりも新し尊円法親王時代影響感じられると、湯山説よりも成立時期をさらに下げており、後の昭和55年1980年)には、宋代書風影響入っているように感じられ、あるいは尊円が臨書したものではないか推測している。

※この「後世の臨書説」の解説は、「智証大師諡号勅書」の解説の一部です。
「後世の臨書説」を含む「智証大師諡号勅書」の記事については、「智証大師諡号勅書」の概要を参照ください。

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