後世の評価・影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 00:27 UTC 版)
「ボストン茶会事件」の記事における「後世の評価・影響」の解説
ジョン・アダムズを始めとする多くのアメリカ人たちは、事件後は、紅茶を飲むことを非愛郷的と見なした。独立戦争中や終戦後にかけて、紅茶の消費は減少し、代わりに温かい飲料としてコーヒーが好まれるようになっていった。 歴史家のアルフレッド・ヤング(英語版)によれば、 "Boston Tea Party" という言葉が初めて印刷物に登場したのは1834年であった。それ以前において、この事件は一般に "destruction of the tea"(茶葉の破壊) と呼ばれていた。ヤングは、長年に渡ってアメリカの著述家たちは、財産の毀損を祝うことには躊躇いがあったようであり、そのために、この出来事はアメリカ独立戦争の歴史を叙述するにあたって通常は無視されてきたものだったと指摘している。しかし、1830年代になると「茶会」に参加した数少ない存命者の一人ジョージ・ロバート・トゥエルブス・ヒューズの伝記が出版されるようになり、以降、事件が知られるようになった。 ボストン茶会事件は、他の政治的抗議活動においてもしばしば言及されてきた。1908年にマハトマ・ガンディーが英領南アフリカでインド人登録証の焼却運動を主導した時、イギリスの新聞はその出来事をボストン茶会事件と比較した。1930年の塩の行進では運動後にインド総督と会談したガンディーは、ショールの中から関税の掛かっていない塩を取り出すと、笑顔で「有名なボストン茶会事件を思い出させる」と述べた。 様々な政治的観点から、アメリカの活動家たちは抗議の象徴として茶会事件を持ち出すことがある。事件から200年目であった1973年には、ボストン港のレプリカの船においてに、当時の大統領リチャード・ニクソンを模した人形を吊し上げ、空のドラム缶数本を港に投棄するパフォーマンスが行われた。これは当時ウォーターゲート事件が発覚したニクソンの弾劾を求めるためと、石油危機が進行する中にあって石油会社に抗議する目的があった。1998年には二人の保守系下院議員が連邦税法を「茶葉」と書かれた箱に入れて、港に投棄した。 2006年にリバタリアン達により「ボストン茶会党(英語版)(Boston Tea Party)」が結成された。2007年に、ボストン茶会事件から234年目に開催されたロン・ポールの献金運動では24時間で604万ドルを調達し、1日間での資金調達記録を更新した。その後、約2年にわたってアメリカの保守政界を支配し、2010年11月の中間選挙における共和党の勝利に貢献した(ティーパーティー運動)。
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