後世の風説と逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:23 UTC 版)
始皇32年(紀元前215年)、始皇帝の巡遊中に、方士である燕人の盧生が人を遣わして、海より持ち帰り、鬼神の事を記したものとして『録図書』という書物を奏上してきた時、秦を滅ぼす者は胡なり」という一文が記されていた。始皇帝はこのため、将軍の蒙恬に命じ、30万の軍を出動させて、北の胡人(匈奴)を討伐させ、河南の地(オルドス地方)を奪い取った。 後漢の学者である鄭玄はこの事を指して、「『胡』とは胡亥、秦の二世皇帝の名である。秦(始皇帝)は図書(録図書)を見て、それが人名であるとは思わず、北の胡人に備えてしまったのだ」と論じている。 また、胡亥が咸陽城を漆で塗ろうとしたところ、優旃(秦に仕えた小人の芸人。冗談が巧みだったと伝わる)が「漆を塗るのは容易ですが、乾燥室が作れません」と冗談めかして諫めたため、胡亥が笑って、中止したという逸話がある。 前漢時代に記されたと見られる『趙正書』では、病気が重くなり死の淵にあった始皇帝(ただし、『趙正書』では皇帝に即位せず、秦王)が、李斯と馮去疾が胡亥を後継とすることを提案し、始皇帝の同意を受け、胡亥は正式に秦王として即位している。『趙正書』において、胡亥は子嬰や李斯の諫言を聞かず、李斯を処刑し、趙高を用いて、趙高に殺されている。
※この「後世の風説と逸話」の解説は、「胡亥」の解説の一部です。
「後世の風説と逸話」を含む「胡亥」の記事については、「胡亥」の概要を参照ください。
- 後世の風説と逸話のページへのリンク