第一次世界大戦から廃止まで (1914-1919)
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「USFSAフランスサッカー選手権」の記事における「第一次世界大戦から廃止まで (1914-1919)」の解説
シーズン結果シーズン優勝1919 ル・アーヴルAC (3/3) 第一次世界大戦による選手権中断期、USFSAは「クープ・ナシヨナル」やクープ・デゼリエ (連合国カップの意)などのカップ戦を開催した。クープ・ナシヨナルはパリのクラブ限定の大会、クープ・デゼリエは他の地方のクラブも参加できた。だが軍事省が総力戦を宣言した1914年にはUSFSAの役員にも協力が求められ、このせいで活動可能なクラブの数はめっきり減ってしまった。1915年のクープ・ナシヨナルは、クラブ数が少ないこともあってかリーグ戦形式となった。CAスポルツ・ジェネロー、レギオン・サン=ミシェル、CAアンギャン、クラブ・フランセが出場し、スポルツ・ジェネローが優勝した。スポルツ・ジェネローは同年の第1回クープ・デゼリエも制覇したが、決勝の相手CAPシャラントンはUSFSAを一時脱退していたジュール・リメが、1910年に作った新興の統括組織リーグ・ドゥ・フットボール・アソシアシヨンに加盟していた。スポルツ・ジェネローはさらに大戦下のフランスサッカーを席巻し続ける。1916年、1917年にもUSFSAの二つのクープを完全制覇した。クープ・ナシヨナルは1916年からトーナメント形式となり、スポルツ・ジェネローは決勝でASフランセーズを破った。1916年クープ・デゼリエ決勝は、この時代のアマチュアサッカーの在り方を表していた。スポルツ・ジェネローとレッドスターFC93の決勝は延長にもつれ込んだが、レッドスターの選手はFAカップの規定では90分で決着がつかなかったときは再試合のはずだ、と言い残して弾薬工場での仕事に戻った。彼らも総力戦に動員されていたので延長戦を戦うヒマがなかったのである。こうしてスポルツ・ジェネローが相手の試合放棄で優勝した。1917年の決勝はちゃんと試合が成立し、FCリヨンは多くのチャンスを決めきれずにスポルツ・ジェネローが4-1で圧勝した。1918年のクープ・ナシヨナル決勝は、ル・アーヴルACがリヨンのCSテローを3-2で破って久々にタイトルを獲得。なお準決勝でル・アーヴルに不戦敗したスタッド・レンヌは、USFSAが中立地を会場に選ばずル・アーヴルでの試合を命じたことを不服に思い棄権した。彼らは一か月後にジュール・リメのLFAに移籍し、それをきっかけにブルターニュのクラブが大挙してUSFSAからLFAに移った 。大戦後最初の、そして最後のUSFSAフランスサッカー選手権決勝はル・アーヴルがオランピック・ドゥ・マルセイユを4-1で下し3回目の優勝を決めた。マルセイユはクラブ創設の翌年にUSFSA地域選手権に加盟してから、圧倒的な強さで優勝し続けて毎年のようにフランス選手権の舞台に立ち続けたが、これが初めての決勝進出だった。
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