第一次世界大戦から海軍休日時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:35 UTC 版)
「アンドレア・ドーリア (戦艦・2代)」の記事における「第一次世界大戦から海軍休日時代」の解説
1918年の初めは「アンドレア・ドーリア」はターラントに配備されていたが、11月10日にコルフ島へ移され1919年2月19日までそこにとどまった。それからタラントに戻り、次いで7月4日にコンスタンティノープルへと向かい同月9日に到着した。そこで連合国艦隊に加わり11月9日まで留まった後タラントに戻った。1920年、ヴェルサイユ条約によってイタリアに割り当てられた旧ドイツ艦艇を引き取るための人員確保のためイタリア艦隊の大半は一時的に解役され、その期間「アンドレア・ドーリア」は実働可能な唯一の戦艦であった。11月、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国との間でラパッロ条約が調印された。同月、「アンドレア・ドーリア」はフューメのガブリエーレ・ダンヌンツィオによる反乱鎮圧のため派遣された。12月24日にフューメ攻撃に加わり、二日後には反乱に加わっていた駆逐艦「エスペロ」に対して76 mm砲による斉射を3回行って大きな損害を与えた。「アンドレア・ドーリア」はダンヌンツィオの本拠も砲撃し、彼を負傷させた。ダンヌンツィオは12月31日に降伏した。 1923年(大正12年)のギリシャとのコルフ島事件では「アンドレア・ドーリア」を含むイタリア艦隊が島へ派遣された。コルフ島事件の解決後、「アンドレア・ドーリア」はスペインを訪問した。1925年(大正14年)1月16日、「アンドレア・ドーリア」はリスボンを訪問しヴァスコ・ダ・ガマの死没後400年記念祭に参加した。続いて2月7日から6月までラ・スペツィアで改修を実施。シリアで内乱が起きるとイタリア国民の避難が必要になった場合に備えて「アンドレア・ドーリア」は駆逐艦部隊と共に東地中海へ向かった。シリアでの騒乱が沈静化した12月12日まで「アンドレア・ドーリア」はレロス島に停泊していた。 1932年(昭和7年)8月、タラントで予備役となる。ヨーロッパで建艦競争が再燃する中で、イタリア海軍は新世代戦艦(リットリオ級)の建造に乗り出す。だがフランス海軍のダンケルク級戦艦(1931年12月24日、起工)やリシュリュー級戦艦(1935年10月22日、起工)が先行する中で、リットリオ級戦艦(2隻とも1934年10月、起工)は中々完成しなかった。このような経緯を踏まえ、ワシントン海軍軍縮条約で保有を許された主力艦より弩級戦艦4隻に大改造を実施して、フランス海軍の新鋭戦艦(ダンケルク級)に対抗することにした。1937年(昭和12年)3月30日にトリエステに到着し、4月8日からカンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコの造船所で大規模な改装工事が開始された。カヴール級の改造実績や、建造中のリットリオ級戦艦を参考にしたので、上部構造物や兵装配置がリットリオ級と似たものとなっている。
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