第一次上海事変での活躍とは? わかりやすく解説

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第一次上海事変での活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/21 08:55 UTC 版)

翁照垣」の記事における「第一次上海事変での活躍」の解説

16歳のときから軍に入隊している。1917年民国6年)の護法運動においては陳炯明率いる粤軍(広東軍)に加入したその後順調に昇進重ね1923年民国12年)、粤軍第1支隊司令に任ぜられている。1925年民国14年)、一時辞職し香港中国青年党加入した1926年民国15年)秋、日本留学して陸軍士官学校中国学生隊第20期で学ぶ。1929年民国18年)秋、卒業してフランス渡り、ヴィラクブレーのモラーヌ・ソルニエ飛行学校入学した1931年民国20年)春、同校卒業帰国している。広東保安第4団団長に任ぜられ、6月警衛軍第88旅旅長に昇進して杭州駐屯した。翌月、蒋光鼐・蔡廷鍇らが率い国民革命軍19路軍で第78師第156旅旅長に任ぜられる。11月上海市閘北に駐屯し上海大学生軍訓副主任兼ねた1932年民国21年1月第1次上海事変(「一・二八淞滬抗戦」)が勃発すると、翁照垣は自らの部隊率いて日本軍相手に戦う。翁は真っ先日本軍に対して火蓋を切り最も頑強に抵抗試みたとされる事変後、呉浙に移駐し、この戦線でも善戦して「呉浙保衛の英雄」と謳われたという。9月に翁は辞職し南洋中国航空協会結成しようとしたが、果たせなかった。1933年民国22年1月青天白日勲章獲得している。同年には、東北軍117師長華僑救国総指揮全国航空建設委員会委員、第67軍副軍長等の職を歴任した

※この「第一次上海事変での活躍」の解説は、「翁照垣」の解説の一部です。
「第一次上海事変での活躍」を含む「翁照垣」の記事については、「翁照垣」の概要を参照ください。

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