第一次三星時代
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韓国・大邱広域市出身、1995年に慶北高等学校卒業後、サムスン・ライオンズに投手として入団したが、高校時代に傷めた左肘が完治せず、白仁天の勧めで打者に転向し、王貞治を真似た一本足打法にフォームを改造。 1997年に初の本塁打王、1999年にシーズン54本塁打の韓国記録をマークし、日韓プロ野球スーパーゲームにも出場。また、シドニーオリンピック予選を兼ねたアジア野球選手権にも出場し、日本戦で本塁打を放った。この年から「ライオンキング」や「国民的打者」の愛称が定着し始めた。 2000年にはシドニーオリンピック野球韓国代表として出場。3位決定戦の対日本戦で松坂大輔から決勝タイムリーを放ち、五輪での韓国代表初のメダル獲得に貢献した。なお、予選リーグの日本戦では松坂から本塁打を記録している。 2003年6月22日の対SKワイバーンズ(大邱市民運動場野球場)戦において、8回裏に金圓衡から通算300号本塁打を放つ。26歳での到達は、日本プロ野球の王貞治やMLBのアレックス・ロドリゲス の27歳を抜く世界最年少記録とされる。なお、この試合では同点で迎えた9回裏二死満塁の場面に打席が回り、自身初となるサヨナラ満塁本塁打を放っている。序盤から本塁打を量産し続け、55本目の本塁打は「2億ウォンの価値がある」とされた他、「(ファンが55号を虫取り網で取ったことから)本拠地の大邱市民運動場野球場では虫取り網が飛ぶように売れる」「李が敬遠されるとグラウンドにゴミが投げ入れられる」など熱狂が拡がった。しかし、55号を放ってから最終戦になるまで本塁打が出ず、李も「(56本は)難しいかもしれない」と弱音を吐いていたが、最終戦に56号本塁打を放った。このボールは満員のスタンドに入らず、当時設置されていたラッキーゾーンに落ち、そこで記念イベントの準備をしていた関係者に拾われて球団に寄贈された。アテネオリンピック野球予選を兼ねたアジア選手権大会では来日して日本戦で4打数1安打を記録している。しかし、韓国代表は台湾に敗れて予選敗退に終わっている。
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第一次三星時代
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1年後、再びドラフトに出て地域優先ドラフトで三星ライオンズの指名を受け、1993年に入団。この一連の入団の過程で、金泰漢と梁埈赫のどちらも逃したくなかった三星との密約説が囁かれた。 1年目からレギュラー選手として出場し、首位打者と新人王を獲得するなど、主力の一人として活躍。
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第一次三星時代
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