第1次ロッキンガム侯爵内閣
(第一次ロッキンガム侯爵内閣 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/07 20:36 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動第1次ロッキンガム侯爵内閣 | |
---|---|
![]() | |
1765年 - 1766年 | |
![]() ロッキンガム侯爵、1766年。 | |
成立年月日 | 1765年7月13日 |
終了年月日 | 1766年7月30日 |
組織 | |
国王 | ジョージ3世 |
首相 | ロッキンガム侯爵 |
総閣僚数 | 12人 |
与党 | ロッキンガム派 |
議会における地位 | 多数与党 |
野党 | グレンヴィル派 |
詳細 | |
議会任期 | 第12期グレートブリテン議会 |
前内閣 | グレンヴィル内閣 |
次内閣 | チャタム伯爵内閣 |
第1次ロッキンガム侯爵内閣(だいいちじロッキンガムこうしゃくないかく、英語: First Rockingham ministry)は1765年から1766年まで続いた、ロッキンガム侯爵を首相とするイギリスの内閣。内閣は主にロッキンガム侯爵の支持者であるロッキンガム派で構成され、最も影響力の大きい閣僚は王璽尚書を務める元首相ニューカッスル公爵だった。閣僚のほぼ全員がジョッキークラブの会員であり、ロッキンガム侯爵自身も主要なパトロンの1人だった。しかし、ロッキンガム侯爵は外交については無知であり、ヨーロッパにおけるイギリスの孤立を食い止めることができなかった[1]。
第1次ロッキンガム侯爵内閣は1766年に倒れ、大ピット(後のチャタム伯爵)を首相とするチャタム伯爵内閣が成立した。1782年にもロッキンガム侯爵を首相とする内閣が成立したため、1765年から1766年まで続いたこの内閣は第1次ロッキンガム侯爵内閣と呼ばれた。
内閣
役職 | 肖像 | 名前 | 在任 | 所属政党 |
---|---|---|---|---|
第一大蔵卿 貴族院院内総務 |
![]() |
ロッキンガム侯爵 | 1765年7月13日 - 1766年7月30日 | ホイッグ党 |
大法官 | ![]() |
ノーティントン伯爵 | 1761年1月16日 - 1766年7月30日 | ホイッグ党 |
枢密院議長 | ![]() |
ウィンチルシー伯爵 | 1765年7月12日 - 1766年7月30日 | ホイッグ党 |
王璽尚書 | ![]() |
ニューカッスル公爵 | 1765年 - 1766年 | ホイッグ党 |
財務大臣 | ウィリアム・ダウズウェル | 1765年7月16日 - 1766年8月2日 | ホイッグ党 | |
北部担当国務大臣 | グラフトン公爵 | 1765年7月12日 - 1766年5月14日 | ホイッグ党 | |
![]() |
ヘンリー・シーモア・コンウェイ | 1766年5月23日 - 1768年1月20日 | ホイッグ党 | |
南部担当国務大臣 | ![]() |
ヘンリー・シーモア・コンウェイ | 1765年7月12日 - 1766年5月23日 | ホイッグ党 |
![]() |
リッチモンド公爵 | 1766年5月23日 - 1766年7月29日 | ホイッグ党 | |
庶民院院内総務 | ![]() |
ヘンリー・シーモア・コンウェイ | 1765年7月 - 1768年10月20日 | ホイッグ党 |
海軍大臣 | ![]() |
エグモント伯爵 | 1763年 - 1766年 | ホイッグ党 |
補給庁長官 | ![]() |
グランビー侯爵 | 1763年 - 1770年 | 無所属 |
無任所大臣 | ![]() |
カンバーランド公爵殿下 | 1765年 | 無所属 |
内閣改造
- 1765年10月:無任所大臣カンバーランド公爵が死去した。
- 1766年5月:北部担当国務大臣グラフトン公爵が辞任した。南部担当国務大臣ヘンリー・シーモア・コンウェイが北部担当国務大臣に転じ、リッチモンド公爵が南部担当国務大臣に任命された。
閣外大臣
- 宮内長官 - ポートランド公爵
脚注
- ^ Simms 2008, p. 520.
参考文献
- Browning, Reed (1975). The Duke of Newcastle. Yale University Press. ISBN 978-0-300-01746-5
- Cook, Chris; Stevenson, John (28 February 1980). British Historical Facts: 1760–1830. Palgrave Macmillan UK. ISBN 978-0-333-21512-8
- Hibbert, Christopher (1999). George III: A Personal History. Penguin Books. ISBN 978-0-14-025737-3
- Simms, Brendan (2008). Three Victories and a Defeat: The Rise and Fall of the First British Empire. Penguin Books. ISBN 978-0-14-028984-8
先代: グレンヴィル内閣 |
グレートブリテン王国の内閣 1765年 - 1766年 |
次代: チャタム伯爵内閣 |
|
第一次ロッキンガム侯爵内閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 08:49 UTC 版)
「チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)」の記事における「第一次ロッキンガム侯爵内閣」の解説
1765年に摂政法制定をめぐって首相ジョージ・グレンヴィルと国王ジョージ3世が対立し、グレンヴィル更迭を決意したジョージ3世は叔父カンバーランド公にグレンヴィルを排除した内閣を組閣できるよう与野党に手回ししてほしいと頼み、その意を受けたカンバーランド公はロッキンガム侯爵と大ピットに協力を要請したが、大ピットは協力を拒否したので、結局1765年7月にロッキンガム侯爵が組閣の大命を受けることになった(第一次ロッキンガム侯爵内閣(英語版))。 内閣発足当初は組閣の第一の功労者であるカンバーランド公の影響力が強かったが、1765年10月にカンバーランド公が薨去したため、以降はロッキンガム侯爵の主導権が確立された。またロッキンガム侯爵の派閥の長であるニューカッスル公爵はすでに70過ぎだったため、政府要職への就任を避け、王璽尚書として入閣していた。そのためこの頃から派閥の実権もニューカッスル公爵からロッキンガム侯爵へと移っていった。 彼の内閣は1年しか持たなかったが、その短い間にも自由主義的内閣改革や植民地人の主張に一定の理解を示した政策・改革を行った。 グレンヴィル前政権期に国王ジョージ3世とグレンヴィル首相がジョージ3世の勅語を批判したウィルクスを「一般逮捕状(人物を特定しない逮捕令状)」で逮捕して言論弾圧を行った問題では、「一般逮捕状」の違法性を議会で決議させることで国王やグレンヴィル前政権の強権政治を否定するという自由主義的立場を示した。 この頃、植民地アメリカでは印紙法反対運動とイギリス製品ボイコット運動が盛り上がっており、7年戦争後の不況に苦しんでいたイギリス商人たちの間でも、ボイコットを恐れて印紙法に反対する者が増えていた。1766年1月にはロンドン・ブリストルなどアメリカとの貿易を重視する都市20以上から印紙法廃止を要求する請願書が庶民院に提出され、政府も立場をはっきりする必要に迫られた。ロッキンガム派は商人との繋がりが強い派閥だったのでロッキンガム侯爵も印紙法廃止に前向きだったものの、議会や宮廷には対植民地強硬派も多かったため、両方の意見を折衷する形で1766年3月に印紙法廃止法案と宣言法(議会の植民地に対する統治権を宣言した法案)をセットで議会に提出して可決させた。 しかしこの措置は国王ジョージ3世からも植民地人からも支持されず、また議会内でもグレンヴィル前政権の政策に反対することでは一致していたはずの大ピット派からも支持を得られなかったため、より安定した内閣を求めるジョージ3世の意向で1766年7月末に更迭され、代わって大ピットが組閣の大命を受けた。
※この「第一次ロッキンガム侯爵内閣」の解説は、「チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)」の解説の一部です。
「第一次ロッキンガム侯爵内閣」を含む「チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)」の記事については、「チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)」の概要を参照ください。
- 第一次ロッキンガム侯爵内閣のページへのリンク