第一次レーズン川の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/25 15:50 UTC 版)
「フレンチタウンの戦い」の記事における「第一次レーズン川の戦い」の解説
北西方面軍副指揮官のジェイムズ・ウィンチェスターは、訓練の足りない正規兵と志願兵約1,000名を率いた。その大半はケンタッキー州出身だった。ウィリアム・ハリソン少将はウィンチェスターに、フレンチタウンの南約30マイル (50 km)、モーミー川近く(現在のペリーズバーグ)で、ハリソン隊を何時でも支援できる位置にいるよう命令した。ウィンチェスターはその命令を無視し、レーズン川沿いに北のフレンチタウンに救援のための小部隊を派遣した。 ウィリアム・ルイス中佐がこの部隊を率い、凍ったモーミー川を越え、エリー湖岸沿いにレーズン川に進んだ。その部隊は667名のケンタッキー州兵と約100名の地元フランス人民兵で構成されていた。1813年1月18日、ルイスは凍ったレーズン川を渉り、イギリス軍とインディアンの宿営地に攻撃を掛けさせた。そこにはエセックス民兵の63名と3ポンド砲1門、さらに約200名のポタワトミ族がいた。短時間の戦闘が起こり、アメリカ軍はイギリス軍と同盟インディアンを後退させた。カナダ兵がインディアンの銃に支えられながら数回アメリカ軍前線への突撃を試みた。戦闘は数時間、散発的に続いた。その後ルイス隊はフレンチタウンを取り戻した。この小競り合いが後に第一次レーズン川の戦いと呼ばれるようになった。 インディアンはフレンチタウンから後退する途中でレーズン川の北約2マイル (3 km) にあったサンディクリークという小さな開拓地を襲った。そこは1780年に入植されていた。家屋16棟全てが焼かれ、少なくとも住民2人が殺された。サンディクリークの町はその後再建されなかった。
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