第一次ロッテ監督時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 22:58 UTC 版)
引退後は日本テレビ(1970年 - 1972年)・ニッポン放送(1972年)で解説者を務める傍ら、タレントとしても活動していた。1972年11月17日、ロッテの監督に就任。金田就任からチームが千葉ロッテマリーンズになるまで19シーズンにわたって使用されたユニフォームは金田がデザインし、軽量化にも拘った。1974年にはチームをリーグ優勝・日本一に導く。1期目の就任当初は「あんな自分勝手な男が監督なんて出来るのか?」という声も上がっていたが、1973年は前年5位の投手陣を走り込み重視のトレーニングで鍛え上げ、Aクラスの3位に浮上させた。同年のリーグ最小失点も記録し、防御率ベストテンに3人(成田文男・八木沢荘六・木樽正明)もランクイン。特に成田は21勝で最多勝を獲得。この頃、大映倒産に伴う東京スタジアムの経営権問題が勃発、金田が球場の狭さを嫌がったこともあり、暫定的に経営権を所有していた国際興業社主の小佐野賢治が球場の廃業と閉鎖を決めてしまう。そのため、同年からは宮城球場を本拠地としながら各地で主催試合を行うことになり、「ジプシー・ロッテ」と揶揄された。そんな中で金田は行く先々で大人気となり、前期優勝のかかった神宮球場の試合にはファンが殺到。入場しきれないファンが球場を取り巻き、テレビ局も急遽中継するほどのフィーバーぶりであった。 1974年は前期こそ阪急に優勝を許すが、後期は阪急の失速や弟・留広の活躍もあって終始首位をキープ。就任2年目で優勝を決めると、プレーオフでも阪急に3連勝を決め、日本シリーズでは巨人のV10を阻止した中日を破る。日本一になった際には「長嶋が最後の年だから相手が巨人じゃなかったのは残念だが、わしは世界一のファミリーに恵まれた。幸せな男や」と喜び、外堀通りで行われた優勝パレードには約200万人の観衆が詰め掛けた。さんまのまんまに出演した際(1987年11月30日)には「どの番組や新聞を見てもロッテの優勝の事はほとんどやってなくて長嶋引退の事ばっかり取り上げてた。」と語っている。 1975年は開幕からピリッとせず、4月23日から5月5日まで心臓発作で休養し、高木公男二軍監督が代行を務めた。6月26日の近鉄戦(藤井寺)では矢頭高雄コーチを代理監督とし、ベンチ入り選手14人(投手:9人、野手:5人)で行い、1-4で敗戦して前期最下位が確定。金田や主力選手ら(有藤通世、木樽、弘田澄男、山崎裕之、ラファエル・バティスタ、ビル・マクナルティ)は帰京して後期に向けた練習をしていたという状態で、後日リーグ理事会から手抜き試合であるとして厳重注意された。後期は2位に盛り返したが、総合4位に終わった。シーズンオフの11月には韓国へ遠征し、24日・25日に東大門野球場で現地のノンプロ選抜チーム「全韓国」と対戦。2試合戦っていずれも勝利している。 1976年は江藤慎一が加入。村田兆治が最優秀防御率を獲得する活躍を見せたが、前後期ともに3位であった。1977年は白仁天・高橋博士・安木祥二が加入。有藤が首位打者を、新加入のレロン・リーが本塁打王と打点王の二冠を獲得する活躍で後期優勝を決めるが、プレーオフで阪急に敗退したため日本シリーズ出場はならず。1978年には川崎球場を本拠地とし、投手陣のリーダー格で前年に2年連続2桁の11勝を挙げていた八木沢を「お前はもう限界」と強制的に引退させようとしたことから、一気に求心力を失う。前期の終盤に15連敗を記録して5位に転落し、その低迷のイライラを選手にぶつけて更に孤立。後期もなかなか勝ち上がれず、8月22日のスポーツ紙には「金田更迭」の大見出しが載る。優勝の可能性が消えてからはゴルフ場から球場に直行することが頻繁にあり、時には遅刻することもあった。最大の後見役であった重光武雄オーナーからの了承もあり、9月30日に辞表を提出し10月2日正式に退任した。なお、重光オーナーは金田の後任候補として前年オフに南海を追放された野村克也を入団させており、選手兼任監督として就任要請をするも、野村は尊敬していた金田の代わりは恐れ多いと固辞し、退団。結果としてもう一人の監督候補であった球団OB(前身の毎日オリオンズ→大毎オリオンズに在籍)の山内一弘が後任として監督に就任し、1981年オフに再びロッテから監督候補として挙がったが再任は見送られた。レロン・リーは「現役時代に400勝を挙げた。となれば、並の選手には理解できない技術や指導論があるものです。金田さんも誤解されていた点が多かったと思います。実は私も最初、彼の言動を消化できないことがあった。でもその後、少しずつ目指す野球がわかってきて、今では尊敬する監督の一人です。最初に金田さんと出会えたおかげでいい野球人生を送ることができました。」と述べている。監督辞任後はフジテレビ(1979年 - 1981年)・ニッポン放送(1979年 - 1983年)、日本テレビ(1981年 - 1989年)で解説者を務めた。1978年に日本プロ野球名球会を設立し、1981年の株式会社改組後は代表取締役を務めた。1988年、野球殿堂入り。
※この「第一次ロッテ監督時代」の解説は、「金田正一」の解説の一部です。
「第一次ロッテ監督時代」を含む「金田正一」の記事については、「金田正一」の概要を参照ください。
- 第一次ロッテ監督時代のページへのリンク