日本軍との戦い
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1937年(民国26年)、日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、孫震は第22集団軍副総司令兼第41軍軍長に任命され、日本軍を迎撃するために山西省方面の戦線に投入された。孫震は最前線で磯谷廉介率いる第10師団などを相手に戦い、主力である閻錫山の晋軍以上に奮闘した。 12月、李宗仁が統轄する第5戦区に遷り、翌年2月、孫震は第22集団軍総司令に昇進した。孫震は、日本軍を恐れて逃亡した第5戦区副司令長官韓復榘に代る形で魯南(山東省南部)に入る。そして3月14日から3日間をかけて、孫震は滕県(現在の棗荘市滕州市)を固守して、進攻してくる日本軍と激戦を展開した。結局孫震は、配下の勇将である第122師長王銘章を失った他、多数の死傷者を出して滕県を失陥している。しかし、この時の孫震以下の勇戦は、日本軍の大きな消耗をもたらした。そのため、この戦いぶりは李からも高く評価され、後の台児荘戦役での勝利をもたらした、と激賞している。 孫震はその後も各地で日本軍との戦いを続け、1939年(民国28年)5月の鄂北会戦、1941年(民国30年)5月の随棗会戦、1943年(民国32年)5月から8月の2度の鄂西会戦などに参戦し、何度か日本軍を撃退する功績を立てている。1942年(民国31年)、第5戦区副司令長官兼第22集団軍総司令に昇進した。1945年(民国34年)9月、第9戦区受降副主官として日本軍の降伏受諾事務を担当している。
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日本軍との戦い
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太平洋戦争開戦時、太平洋戦域には3隊の魚雷艇隊があった。ハワイ州真珠湾配備の第1魚雷艇隊、パナマ運河地帯配備の第2魚雷艇隊、そしてフィリピン配備の第3魚雷艇隊である。このうちハワイ州真珠湾配備の第1魚雷艇隊は、日本軍の真珠湾攻撃において、奇襲攻撃の混乱の中で、2名の隊員が日本軍機を機銃で撃墜した。大戦初の戦果である。しかし、爆撃で基地はやられ、補給は絶望的だった。「どうやって生き延びるか」という事だけ考えていた。1941年12月、アメリカ海軍には29隻のPTボートがあった。「ベニヤ板の驚異」「レジャーヨット部隊」と言われ馬鹿にされていた。海軍のほとんどは、あんな小型艇を「軍艦」と認めたくなかったのであろう。また、第二次大戦の前、海軍上層部はPTボートの扱いに困っていた。補給任務にでも使えばいい、と考えたくらいである。しかし第3魚雷艇隊はフィリピンの戦いにおいて防衛戦闘に従事し、直接的な戦果はあげ得なかったものの、島嶼地域での戦闘における有効性を示した。またフィリピン防衛の指揮官であったダグラス・マッカーサーがフィリピンから脱出する際同隊のPTボートを使用したことが、PTボートの活用をマッカーサーに印象づけたとも言われる。 日本軍がソロモン諸島・ニューギニア・レイテ島などの各方面で、連合国軍の航空優勢下において行った、蟻輸送と呼ばれる大発動艇などの舟艇を利用した物資輸送にとって、PTボートは天敵とも言える存在であり、その阻止に非常に有効であった。日本軍も武装した大発動艇や装甲艇などで対抗を図ったが、機動性の違いから有効な対策とは成り得なかった。また同じ魚雷艇で対抗するには日本軍の魚雷艇は性能、数量とも十分ではなかった。このほか、PTボートは陸戦の支援や救難など様々な任務に投入された。スリガオ海峡海戦では、西村艦隊に第一撃をかけ、こちらも直接的戦果は小さかったが、斥候として果たした役割は大きかった。日本軍からは「夜の悪魔」として恐れられた。
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日本軍との戦い
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1942年2月6日、日本軍占領下のフィリピンで、農民運動を母体にルソン島の山村でルイス・タルクをリーダーとして結成された。 フクバラハップはパンパンガ・タルラック・ヌエヴァ・エシハ各州の貧農を主な構成員としていたが、5管区から成る軍隊組織や軍事学校をも有しており、日本軍の追放や地主階級の打倒を目的として、日本陸軍を相手に巧妙なゲリラ戦を展開した(住民も住居や食糧を提供するなどしてその活動を支援した)。これに対し日本軍は爆撃などによる大規模な攻撃を再三行うなど苛烈な報復を繰り返したがその勢力を一掃することはできず、フィリピン占領期間中、日本軍は一貫してフクバラハップに苦しめられた。
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