日本軍との激戦
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1930年(民国19年)の中原大戦では、孫殿英は馮玉祥や閻錫山に味方して反蔣聯軍第4方面軍(総指揮:石友三)第5路総指揮兼安徽省主席として安徽省北部で戦った。しかし、同年9月に張学良が蔣介石支援のために南下してきたため、反蔣聯軍は瓦解した。孫は中原大戦後期から張学良と秘密裏に連絡を取っており、敗戦後は張の庇護を受け、東北軍配下で暫編陸軍第2師師長、第40師師長に任命された。満州事変後の1931年(民国20年)11月、第41軍軍長に昇進。普城に秘密工場を作り、アヘンや偽札を密造して軍需物資や黄金を得た。一方で共産党員とも通じ、抗戦要求声明を発している。 1933年(民国22年)2月、東北軍の万福麟が熱河で大敗したため、孫は第9軍団総指揮に任ぜられ、救援に急行し、赤峰、続いて長城抗戦で日本軍と交戦している。最終的には敗れたものの、勇敢な戦いぶりであったため、世論の称賛を受け、補給物資や救護要員が殺到した。 同年5月4日、蔣介石から青海西区屯墾督弁に任命され、青海・甘粛・寧夏方面の統治に参加するよう指示された。なお、これは蔣介石が孫と上記3省を統治する回族馬氏とを衝突させ、共倒れを狙おうとした罠であったとされる。結果、孫は寧夏の馬鴻逵と交戦したが、次第に劣勢となる。1934年(民国23年)3月、孫は山西省の閻錫山に投降して、軍権を剥奪された。5月には、何応欽から軍事委員会北平分会高等顧問に任命された。 1936年(民国25年)6月、冀察政務委員会委員長の宋哲元から、孫は察北保安司令に任命される。翌年7月、日中戦争が勃発すると、冀北民軍司令として日本軍への抗戦に従事する。北平陥落後は敗残兵や平津の漂流者約3000人を糾合して行唐に渡り、蔣介石より冀察遊撃司令に任ぜられた。孫は1万人にまで膨れ上がった将兵を率いてゲリラ戦を展開して大きな戦果を挙げ、蔣介石の称賛を受けた。 1938年(民国27年)、河南省林県(現在の安陽市林州市)に駐屯して日本軍と戦い、新編第5軍軍長に昇進。翌1939年(民国28年)1月より冀察戦区(中国語版)(司令長官:鹿鍾麟、副司令:石友三)隷下として河北省にも展開した。この時の孫の戦績は良好であり、また、八路軍や日本の傀儡政権など、様々な勢力と密かに連携していた。特に、冀北民軍司令当時から従っていた副軍長の邢肇堂(中国語版)は八路軍と関わりが深い人物で、1940年(民国29年)2月~3月に冀察戦区と八路軍との交戦が発生(磁武渉林戦役)した時には、衛立煌から掩護命令を受けても邢の意向で八路軍との交戦を避けていた。しかし、そのせいで朱懐冰(中国語版)の第97軍が劉伯承の八路軍第129師の襲撃を受け、壊滅的被害を追ってしまった。蔣介石や何応欽からの追及を恐れた孫は、全責任を邢に負わせ逮捕しようとしたが、それを察知した邢は翌年1月、八路軍司令部へと逃亡した。
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