日本軍による上海爆撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 14:37 UTC 版)
「中国空軍の上海爆撃 (1937年)」の記事における「日本軍による上海爆撃」の解説
16日以降に艦載機を飛ばせるほど天候が回復したため、加賀に加えて第一航空戦隊(鳳翔、龍驤)と神威の搭載機が虹橋飛行場などの上海周辺地域や上海市内の敵陣地に対して空爆を行い、16日に第一航空戦隊は敵機10機破壊と2機撃墜を記録。17日以降から神威が呉淞沖に移動して直接援護を行った。27日に第十二戦隊は第三航空戦隊となった。 なお第三艦隊内で空爆により第三国の所有する資本に被害が出ていることが問題視され、22日に連合艦隊へ上海市内への空爆を見合すよう申し入れているが却下されている。26日には英国の大使を乗せた車両が日本機によって攻撃された。この時期、民間人被害は専ら、日本軍の高射砲の砲弾の破片や榴散弾の弾丸が落下して来てそれを受けた、ミスにより砲撃の着弾距離が足りずに近辺に着弾した砲弾の被害を受けたといったことが主体となっている。 8月28日ほぼ2週間の戦闘の後、緊張が和らぎ、北部での軍事境界線が撤去されたように見えたが、日本軍は南側で攻撃に出ることを計画していた。南市の駅で避難のための列車を待っていた数百人の避難民の列に日本軍機の爆弾が落された。避難民の多くが女性、子供であったという。日本側は中国兵がいたためと主張したが、現場に入った外国人ジャーナリストらによって、この主張は完全に否定された。このとき、有名な泣く幼児の写真が撮られ、世界中に流れた。(この写真にはやらせや演出疑惑がつきまとうものの、爆撃事件自体が実際に起こり、それが日本軍によって引き起こされたことは、今のところ、どのような歴史修正主義者からも否定されていない。)これが、誤爆による民間人の最後の大きな被害となったが、戦闘はこの後も数週間続き、日本側の対空砲火や砲撃のミスによる民間人の被害が続いた。この写真を撮ったカメラマンの首には日本側から賞金が懸けられ、ために当人は上海を脱出することになったという。
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