長城抗戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/28 21:37 UTC 版)
北伐後、馮玉祥と蔣介石の対立が激化し、ついに内戦に発展する。宋哲元も馮玉祥の元で反蔣戦争を戦った。しかし1930年(民国19年)に反蔣連合は、最終的に敗北する。宋哲元は張学良を頼り、第29軍に改編されて山西省陽泉に駐屯した。同年11月に宋哲元は正式に第29軍軍長に任命されている。 1932年(民国21年)7月、宋哲元は察哈爾省政府主席を兼任した。1933年(民国22年)、張学良の命により北平付近に駐屯して日本軍に備える。2月18日には、張学良が発した抗日の電文に名を列ねた。3月、日本軍に脆くも大敗した万福麟と交代して、宋哲元率いる第29軍が喜峰口などで日本軍を相手に抗戦し、善戦する(長城抗戦)。最終的には防衛線を破られて宋哲元は通州へ撤退したが、この時の戦いぶりは中国国内世論から大きな賞賛を受けた。 しかしまもなく、馮玉祥が抗日同盟会を組織して華北で活動を開始すると、宋哲元は馮玉祥への対処をめぐって苦慮した。このため同年中に蔣介石は、塘沽協定の障害となる馮玉祥に対して有効な処置をとれない宋哲元を見限り、宋哲元を察哈爾省政府主席から罷免し、龐炳勲を後任にしようとした。しかし、宋哲元は馮玉祥を助けて、龐炳勲を軍事的に牽制する態勢をとり、この時点では宋哲元は自らの地位を守った。
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