長城の放棄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 20:18 UTC 版)
西暦164年、ローマ軍はハドリアヌスの長城へ撤退し、アントニヌスの長城は建設後わずか20年で放棄された。のちにブリソン族と講和し、この周辺は辺境の緩衝国となり「かつての北辺」となった。197年に再び戦闘状態となった際、セプティミウス・セウェルス帝は辺境防備のため208年にスコットランドへ至り、長城の補修を命じた。この遠征は数年に過ぎないものだったが、のちのローマの歴史家によって「セウェルスの長城」とも呼ばれている。 長い年月の間に、風雨にさらされたり建築材料になってしまったりしたので、現在ハドリアヌスの長城もアントニヌスの長城もほとんど残っていないが、それでもビアースデン、カーキントルック、トゥエーカー、クロイ、ファルカーク、それにポルモントなどに行けば、現存する長城の一部を見ることができる。
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