長坂駅開業までの経緯
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1903年(明治36年)12月21日に中央線の甲府~富士見間が開通し、同区間には甲府・竜王・韮崎・日野春・小淵沢・富士見の各駅が設置されたが、日野春駅と小淵沢駅は駅間が13.6Kmあり八ヶ岳台地の両端に位置することから地理的に交通上の問題を抱えており、地域の産業経済の発展を望む人々は、木材薪炭などの搬出や地域で必要とする物資を搬入できる駅を望んでいた。1915年(大正4年)12月に日野春~小淵沢間への信号場設置が計画されたことを受けて長坂上条区では停車場設置に向けての運動を開始し、1918年(大正7年)12月11日に12時44分着の上り列車を一番列車として開業をむかえた。 長坂駅開設にあたっての地元のねらいは駅を拠点とした地域振興だった。これは日野春駅開設の際に日野春村長を中心として地域の九カ村が誘致を行った目的とまったく同じであり、当時、各村は日野春駅に向かう道路網の整備に多額の経費を投入している時期であったため、日野春村長はもとより、各村長も前に立って鉄道当局に請願することができない立場であり、必然的に長坂上条区の請願委員会が中心となって取り組みが進められることとなった。 駅開業までの運動は以下のとおりである。 1915年(大正4年12月5日):鉄道院甲府運輸事務所の係官が、長坂上条区長の小尾慈学を訪ね、長坂上条地内への信号場設置に向けた測量と用地買収を行う旨を告げ、12月末までに地元の意見集約を依頼。 1916年(大正5年1月):長坂上条区の総会で停車場設置の請願運動実施を決定。 1916年(大正5年2月6日)設置請願委員会を設置、委員に元区長・助役・区会議員等16人 を選出して関係村長はじめ各方面に署名運動を展開。また、委員の代表が幾度かにわたって上京し、身延町出身の衆議院議員・望月小太郎をつうじて鉄道院の床次竹二郎総裁に駅設置を交渉した。 1916年(大正5年3月):日野春村長向井定太郎を先頭に有志代表は中部鉄道長野局長に請願書を提出。駅の敷地全部の提供と工費の一部(1,000円)負担の条件で新駅の設置が可能となる。 1916年(大正5年10月27日):一時金50円を借り入れるとともに請願委員もひとり7円の資金を拠出することとする。駅建築費の一部負担金の捻出は募金によったが、当初は賛同を得るのに困難があり、運動資金にも不足したようであるが、清春村の小尾勘三郎から700円、諏訪郡の製糸家から970円の献金を得るなど、最終的には5,500円余が集まった。 1917年(大正6年8月26日):日野春村 議会で区有地である長坂上条区大日向2575番地のうち5,777坪を鉄道院に寄付すること、駅への道路新設のため、同番地のうち1,480坪5合を道路敷とすることを議決。 1918年(大正7年1月25日):日野春村長・向井丈太郎を通じ、鉄道院に土地と工事負担金の納付を完了。駅建設工事が着工される。
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