長坂駅開業までの経緯とは? わかりやすく解説

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長坂駅開業までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 07:57 UTC 版)

長坂駅」の記事における「長坂駅開業までの経緯」の解説

1903年明治36年12月21日中央線甲府富士見間が開通し、同区間には甲府竜王韮崎日野春小淵沢富士見の各駅が設置されたが、日野春駅小淵沢駅は駅間が13.6Kmあり八ヶ岳台地両端位置することから地理的に交通上の問題抱えており、地域の産業経済の発展を望む人々は、木材薪炭などの搬出地域で必要とする物資搬入できる駅を望んでいた。1915年大正4年12月日野春小淵沢間への信号場設置計画されたことを受けて長坂上条区では停車場設置向けて運動を開始し、1918年大正7年12月11日12時44分着の上列車一番列車として開業むかえた長坂駅開設にあたって地元のねらいは駅を拠点とした地域振興だった。これは日野春駅開設の際に日野春村長を中心として地域の九カ誘致行った目的とまったく同じであり、当時、各日野春駅に向かう道路網の整備多額経費投入している時期であったため、日野春村長はもとより、各村長前に立って鉄道当局請願することができない立場であり、必然的に長坂上条区の請願委員会中心となって取り組み進められることとなった。 駅開業までの運動以下のとおりである。 1915年大正4年12月5日):鉄道院甲府運輸事務所係官が、長坂上条区長の小尾慈学を訪ね長坂上条地内への信号場設置向けた測量用地買収を行う旨を告げ12月末までに地元意見集約依頼1916年大正5年1月):長坂上条区の総会停車場設置請願運動実施決定1916年大正5年2月6日設置請願委員会設置委員に元区長助役区会議員16人 を選出して関係村長はじめ各方面署名運動を展開。また、委員の代表が幾度かわたって上京し身延町出身衆議院議員望月小太郎つうじて鉄道院床次竹二郎総裁に駅設置交渉した1916年大正5年3月):日野春村向井太郎先頭有志代表は中部鉄道長野局長請願書提出。駅の敷地全部の提供と工費一部(1,000円)負担条件新駅設置が可能となる。 1916年大正5年10月27日):一時金50円借り入れるとともに請願委員もひとり7円の資金拠出することとする。駅建築費の一部負担金捻出募金によったが、当初賛同を得るのに困難があり、運動資金にも不足したようであるが、清春村の小尾勘三郎から700円、諏訪郡製糸家から970円の献金を得るなど、最終的には5,500円余が集まった1917年大正6年8月26日):日野春村 議会区有地である長坂上条大日向2575番地のうち5,777坪を鉄道院寄付すること、駅への道路新設のため、同番地のうち1,480坪5合を道路敷とすることを議決1918年大正7年1月25日):日野春村長・向井丈太郎通じ鉄道院土地工事負担金納付完了駅建設工事着工される。

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