長坂集落の報道被害
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「1888年の磐梯山噴火」の記事における「長坂集落の報道被害」の解説
泥流により集落の約半数、80名あまりが亡くなった磐瀬村長坂では、前述のように多くの死者が出た理由としては、農作業中に泥流に襲われたという説と、噴火に驚いて磐梯山と反対側の東側である長瀬川の方向に逃げたところを泥流に襲われたとの説がある。 泥流によって甚大な人的被害を被った長坂集落は、被災後、事実とは大きく異なった被災者を傷つける報道が相次いだ。読売新聞に連載した田中智学の磐梯紀行では、老人や赤子や病気の者を助ける余裕もなく、若者や壮年の者たちは我先にと逃げ出したところ、逃げた若者、壮年の人たちはみごとに泥流に飲まれ、老人や赤子や病気の者たちは生き残ったという内容の記事が掲載された。つまり長坂では老人や赤子や病気の者を見捨てて逃げ出した不届き者に天罰が下ったというような、泥流で亡くなった人々を貶める内容の新聞記事が掲載されたのである。 長坂の人々を傷つけたのは、新聞などによる報道ばかりではなかった。当時の有力学術雑誌であった東洋学芸雑誌には 磐梯の東麓に長坂村あり、該山(磐梯山)北に崩潰の際、磐梯は東に崩れ長坂を埋没するものと誤認し、土人は尊敬すべき両親も愛らしい子どもなどはこれ平日のこととして、にわかに仏道の信仰者となりしものか、天上天下唯我独尊と真の動物心を出し、老弱幼稚を後に残し、壮年の男女は長瀬川を越して東対岸に達せんとせしに、あにはからんや、北より来たりし泥土の流れのため九十四人はたちまち奈落の地獄に入れり。命助かりしは遁逃の力なき老人と歩行もできぬ子どものみ。 という記事が掲載された。この記事では長坂集落の事例は優者が亡くなり劣者が生き残ったと、チャールズ・ダーウィンの自然選択説の逆を行ったと紹介しているが、翌月の東洋学芸雑誌には追い討ちをかけるかのように、一読者からの質問とその回答という形で、長坂で親や子を見捨てて逃げたのは一時の気の迷いなのか、それともあのような非常時にはやむを得ないことであったのかについての議論が行われた。 当時、ダーウィンの進化論の安易な応用というべき「優勝劣敗」の絶対視、自然選択説の極端な適用が数多く見られ、実際この東洋学芸雑誌の記事に反論するような「長坂で逃げて死んだ人々は適切な判断が出来なかったわけですなはち劣者であり、逃げられなかった人は結果として適切な場所に居たわけであるから優者である」。との内容の記事が動物学雑誌に掲載されるありさまであった。 実際、長坂集落で亡くなった人たちを年齢別、世帯別に確認してみると、まず30歳以下の若年層の死者が多かった。10代、10代未満の死者も多く、子どもも多数亡くなっている。被災後の救助米の年齢別支給状況も他の被災集落とほぼ同一であった。また老人や子どものみが残された世帯は4世帯と長坂全体の1割あまりに過ぎず、家族全員が助かった世帯が10世帯、逆に全員が死亡した世帯も単身世帯を除いて3世帯あった。これらのことから青壮年の住民が弱者である老人、子ども、病弱者を置き去りにして逃げ出し、泥流に飲まれ亡くなったという報道は事実と反するものであったと考えられている。 この弱者を置き去りにして逃げた青壮年たちが、避難先で泥流に飲まれ亡くなったという事実と異なる報道によって、長坂集落の人々は周囲や世間から非難の矢面に立たされ、名誉をいたく傷つけられた。そして磐梯山噴火報道によるいわば報道被害に、長坂集落は100年以上苦しめられ続けることになった。
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