長坂新村の開村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 10:06 UTC 版)
後藤太兵衛が、長坂用水開発と同時に長坂新村の開村を采配したことは、藩の記録等で知られていたが、昭和30年代に初めて実施された後藤家の調査で、長坂新村開村時の農家104戸の配置絵図に住人名と出身地が記載された史料が発見された。彼らは長坂用水の開発に従事した後に長坂新村に居住したと考えられるが、絵図から、入村者は石川郡、能美郡、鹿島郡のほか、砺波郡、新川郡、射水郡(いずれも現在の富山県の諸郡)など加賀藩全域の出身者であったことが分かる。しかも、入居104戸の殆どは家族持ちであり、大人・子供(14歳以下)の合計は340人である。また、後年、入村者の中から肝煎りに昇進する者もあり、それまでの新村開村と異なり、用水開削の重労働を厭わない強健で有能な者を募集し、家族ぐるみで入村させたものと考えられ加賀藩の意気込みが感じられる。1671年(寛文11年)の長坂新村の石高は480石だが、米が収穫されたことから同年春には長坂用水が完成して通水していたことが分かる。用水完成から6年後の1677年(延宝5年)には石高945石となり、給付米も不要となり、年貢を納めるまでになっている。
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