被災後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/13 14:43 UTC 版)
嵐が過ぎ去ると、人々はカテゴリー4のハリケーンから生き延びたことを喜んだ。しかし、このときの彼らにはラジオ放送の停止などで情報が不足していたので、楽観的になることしかできなかったのだ。情報を全く入手できない状態は数日間続いた。各地で生還を祝うパーティが開かれたが、電力が停止していて冷蔵庫が使えなかったため、必然的に人々は腐りやすい生鮮食料品を大量に消費することとなった。結果、カウアイ島の食料品店には食料を買い求める人々が大勢押し寄せたのだった。また、このとき元ビートルズのジョージ・ハリスン(当時彼はカウアイ島の北部に住まいを構えていた)を含むハワイ在住のエンターティナーやホノルル交響楽団が、被災者のために無料コンサートを開いている。 イニキ被災後に略奪行為も発生したが、それは予想よりも小さなものだった。アメリカ陸軍工兵団の一団は数週間前にハリケーン・アンドリューの被災地での略奪行為の横行を目の当たりにしたばかりだったため、被災した直後のはずである島が平穏であったことに驚きを禁じえなかった。約6週間ほどで島の大部分の電力は復旧したが、学校はそれよりも早い2週間で復旧していた。資金面でも、カウアイ島民は政府や保険会社からの援助に希望を抱いていたが、6週間経ってもなかなか思った通りの支援は得られず、苛立ちだけが募った。島民たちのニーズを反映した、軍からの効果的な支援も模索されたが、正式に支援を要請するよりも早くその支援は到着したのだった。 この嵐は、被災してから3週間の間にアマチュア無線の有用性も証明した。アマチュア無線での呼びかけにより、近隣の島からだけでなく環太平洋地域の各地の島々からもボランティアがやってきた。彼らはその技術を使い、1週間の間リフエ町自治体の通信を支援した。それだけでなく、この地域のアマチュア無線家は、アメリカ赤十字社の支援がカウアイ島の避難所や島内全体に行き届くようするための支援も行った。 被災後、多くの保険会社がハワイから撤退した。この問題に対処すべく、当時州知事だったジョン・D・ワイヘエ3世(John D. Waihee III)は、無力なハワイ州民を救済するためのハリケーン救済基金を1993年に設立した。この基金はこれ以後のハリケーン被害の救済には使われず、保険会社が島に戻り始めていた2000年に停止された。 鶏小屋に強風が吹きつけ、逃げ出した鶏を必死で追いかける人の姿も見られたという。これがカウアイ島の野生の鶏を劇的に増大させる原因となった。
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被災後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 09:23 UTC 版)
火元者となった恒松寅助へは、通常の厳罰とは違い寛大な処置が取られ、失火料を課されたのみで済んでいる。一説に、寅助は失火後に薩摩国へと逃れたが、当人が鉄砲鍛冶ということもあり、幕末の動乱の最中である為に寛大な処置がなされ、帰藩が許されたと『人吉市史』は記述している。 この大火に際して藩主の相良頼基は、参勤延期願を江戸幕府へ届け出て受理されている。 また、焼失した武器の再整備に伴い、藩士の意見の相違から藩内抗争が発生することとなる(詳しくは丑歳騒動を参照のこと)。
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