丑歳騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 01:00 UTC 版)
丑歳騒動(うしのとしそうどう)は、幕末の慶応元年(1865年)に起こった騒動である。文久2年(1862年)に発生した大火「寅助火事」により武器が焼失し、また西洋式軍隊の導入の必要性を感じた藩は、松本了一郎を起用し軍制改革に乗り出した。了一郎の一派は佐幕であり洋式派と呼ばれた。一方、江戸初期からの伝統である山鹿流軍制を守ろうとする家老らは勤王派であった。こうした軍制と政治の対立があったが、洋式派が優勢となりオランダ式軍制への改革が推進された。これに反発した勤王派は了一郎らを襲撃し洋式派14人を上意討ちにし、逆に勤王派が主導権を掌握した。その後、山鹿流、オランダ式とも廃止され薩摩藩よりイギリス式軍制が導入された。一連の騒動から藩内の改革が立ち後れ、明治維新では新政府軍に参加したものの目立った活躍はなかった。
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