天上天下唯我独尊
「天上天下唯我独尊」は、釈迦が生まれた直後に放ったとされる言葉・この世で一番偉いこと・人は生きているだけで尊いということを意味する表現である。
「天上天下唯我独尊」とは・「天上天下唯我独尊」の意味
「天上天下唯我独尊」は、仏教用語であり、「私ひとりだけがこの世界で最も尊い」という意味合いの言葉だ。仏教の開祖である釈迦が、生まれた直後にこの言葉を放ったとされている。「天上天下」は、天上の世界と天下の世界の総称、宇宙や世の中といった意味の言葉だ。「唯我」は「私だけ」、「独尊」は「ひとり尊い」という意味である。天上天下唯我独尊という言葉を放った釈迦がどんな人かというと、釈迦族の王子として生まれた人である。そして、生まれた直後に7歩歩いた後、右手で天を、左手で地を指すポーズを取り、「天上天下唯我独尊」と言ったとされる。釈迦は王子として何不自由ない生活を送っていたが、29歳で王子の地位を捨て、人々を苦しみから救うための旅に出た。
天上天下唯我独尊の「私ひとりだけがこの世界で最も尊い」という意味は、釈迦が傲慢であるように誤解されることがある。しかし、天上天下唯我独尊は、人として生まれた者は、ひとりひとりが尊いという意味合いを含んでいる。そのため、仏教用語としては、いい意味で解釈される言葉である。決して、釈迦が傲慢だという意味で使用される言葉ではない。
ただ、現代では、自分がこの世で最も偉いという、間違った意味で使用されることは多い。特にヤンキーが、天上天下唯我独尊を座右の銘にするのはよくあることだ。そして、その間違った意味が、辞書に登録される例もある。
天上天下唯我独尊は、漫画作品でも頻繁に使用される言葉である。大勢のヤンキーが登場する東京リベンジャーズでは、マイキーが率いる東京卍會の特攻服に、天上天下唯我独尊の刺繍が入れられている。また、呪術廻戦でも、五条悟のセリフとして、天上天下唯我独尊が取り入れられている。ただ、五条のセリフで使われている天上天下唯我独尊は、意味が明確にはなっていない。そのため、SNSやYahoo!知恵袋などで、意味を知りたい人が質問を投稿することがある。
「天上天下唯我独尊」の読み方
「天上天下唯我独尊」の読み方は、「てんじょうてんがゆいがどくそん」あるいは「てんじょうてんげゆいがどくそん」のいずれかである。どちらであっても、意味は特に変わらない。「天上天下唯我独尊」の語源・由来
「天上天下唯我独尊」は、釈迦が出生した際の宣言である「誕生偈(たんじょうげ)」が元となっている。誕生偈では、釈迦は生まれた後に、「天上天下唯我独尊、三界皆苦吾当安此」という言葉を放ったとされる。この世において、人として生まれた者は皆尊いが、この世は苦しいことばかりであるため、私が安らかにしようという、釈迦の宣言である。その中から、「この世において、人として生まれた者は皆尊い」という部分だけを抜き出したものが、「天上天下唯我独尊」である。「天上天下唯我独尊」の使い方・例文
「天上天下唯我独尊」を、釈迦の教えの通りの意味で使用する場合、「天上天下唯我独尊であるため、自身を卑下するのは良くない」
「例え意見の合わない人がいたとしても、天上天下唯我独尊の教えを大切にしようと思う」
「今日寺院で行われた法話は、天上天下唯我独尊がテーマであった」
「天上天下唯我独尊の考えに基づいて、私は人として精一杯生きようと思う」
「私はこれまで、天上天下唯我独尊の教えを大切にしてきたが、彼が人として尊いとはどうしても思えない」
といった使い方となる。
自分がこの世で最も偉いという、異なる解釈の場合は、
「人が子供の頃は、天上天下唯我独尊になるのも仕方のないことだろう」
「上司は、自分が最も偉いかのような振る舞いをする。まさに天上天下唯我独尊である」
「かつて私は、天上天下唯我独尊のような考え方であった」
「この楽曲には、俺たちが偉いという意味合いで、天上天下唯我独尊という言葉が使用されている」
「彼女は天上天下唯我独尊のような振る舞いをしているので、人が離れていくのも仕方がない」
のように使用する。
てんじょうてんげ‐ゆいがどくそん〔テンジヤウテンゲ‐〕【天上天下唯我独尊】
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天上天下唯我独尊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/27 01:36 UTC 版)
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天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん[1][2][3][4]、または、てんじょうでんがゆいがどくそん)とは、釈迦が誕生した際に宣言したとされる言葉。
古い漢訳仏典には「天上天下唯我為尊」との表記が見られる[5]。
形成過程


仏教の教義では、兜率天にいた釈迦は白象に化して母マーヤーの胎内に宿り、産みの苦しみを与えないためマーヤーの産道を通らず右の脇腹より生まれ出たとされる[6]。そして生誕した釈迦は七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と宣言したとされる。釈迦は生誕時には過去世の記憶を保っており上記の宣言をしたが、その後普通の人間と同じく過去世の記憶を失った。時は流れて釈迦が悟りを開いてブッダになると六神通を得て、六神通の一つである宿命通によって釈迦は過去世の記憶を全て取り戻した、と説明される。
大乗非仏説では、大乗仏教は上座部仏教よりも後発の宗派であると説明される。大乗非仏説では、釈迦の直説は、恐らく上座部仏教の教義に近い内容だったと考えられており、釈迦は輪廻転生の存在を事実と認め、苦に満ちたこの世界で輪廻転生を繰り返すのは生に対する執着があるからで、欲や執着を絶ちこの世界に再び生まれ出ることがなければ苦を受けることはない、輪廻から解脱して涅槃に入るべきだと説いた。すなわち釈迦が目指したのは「死後に天界を含めて二度と生まれ変わらないこと」だったと説明される[7]。佐々木閑は「釈迦はこの世を一切皆苦ととらえ、輪廻を断ち切って涅槃に入ることで、二度とこの世に生まれ変わらないことこそが究極の安楽だと考えた」「(釈迦の説く涅槃とは)悟りを開いた者だけが到達できる特別な死であり、二度とこの世に生まれ変わることのない完全なる消滅を意味する」と論じている[8][9]。
上座部仏教の『パーリ仏典』希有未曾有法経では釈迦の生誕時の言葉について「私はこの世界で最上の者である。これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれることはない」、すなわち私は前世で功徳を累積し誰も到達したことのない悟りに最も近い者である、これまで輪廻転生を繰り返してきたが、今世の生で悟りを得て解脱し涅槃に入ってみせるという釈迦の決意表明として説明されている[10]。上座部では、釈迦は六道輪廻の中で善行を積み天界(兜率天)に転生していたが、成道のため現世に降下したと解釈する[11]。
しかし大乗仏教では三身説や久遠常住などの教義が生まれ「釈迦は衆生を救うため法身仏に遣わされた仏である、または法身仏の化身である」「応身の釈迦は80歳で肉体を捨てて法身として仏界に帰った」というような教義解釈、例えるならばキリスト教の両性説のような解釈をとるようになった[12]。つまり釈迦は入滅後も法身仏として存在していると解釈している。こうした理由によるためか後半の「これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれることはない」が省かれて前半のみの「天上天下唯我独尊」となり意味合いが分かりにくくなっている、と説明される[13]。
『ブッダチャリタ』では生誕した釈迦の誕生時の言葉について「天上天下唯我独尊」ではないが、「私のこの生は仏に成るための生であり、現世での最後の生である。私はただこの一度の生で全ての衆生を救済してみせよう」と伝えている。意味合いとしては、これまで私は輪廻転生を繰り返してきたが、今回の生で悟りを開いて仏陀になり、苦に苦しむ衆生に輪廻から解脱する方法を教授したのち、自らも涅槃に入ってみせるという釈迦の決意表明になっている[14][15]。『ブッダチャリタ』は上座部仏教寄りの立場から描かれており、涅槃に入った者は生まれ変わらなくなると解釈するため、釈迦は「現世での最後の生」だと宣言している[14][15][16]。
仏典等での既述
『大唐西域記』(646年成立)の中に記載されている、釈迦の誕生当時を伝える誕生偈と呼ばれる偈文には、
天上天下 唯吾獨尊
今茲而往 生分已盡[17]
という一節が記されている。 これを訳すと
- この世界の中で我のみが尊い。
- 今ここに生まれてきたが、再び生まれ変わることはない。
つまり誰も到達したことのない悟りに最も近い者であるから「唯我独尊」であり、今世の生で悟りを得て解脱し涅槃に入ってみせるという釈迦の決意表明になっている。
釈迦の誕生を伝える漢訳仏典には、『佛本行集経』卷八・樹下誕生品下、『佛説太子瑞應本起経』卷上など様々あるが、代表的な『修行本起経』卷上・菩薩降身品第二には、
天上天下唯我為尊 三界皆苦吾当安之
欲界・色界・無色界の三界の迷界にある衆生はすべて苦に悩んでいる。私はこの苦の衆生を安んずる(解脱させる)ために誕生したのだから、尊いとしている。
現代の解釈
伝統的には「この世で自分こそが尊い」と解釈されるが、「この世のすべてが尊い」とする解釈もある[18]。後者の解釈は、仏教学者の中村元や、浄土宗・真宗大谷派・浄土真宗本願寺派などの出版物が提示している[18]。同様の解釈は前近代からあったが、広まったのは近代からとされる[19]。
天台宗尼僧の露の団姫は、「この広い世界のなかで、私たち人間にしかできない尊い使命がある」と解釈している[20]。
日本語の慣用句としての「唯我独尊」は、「この世で自分ほど偉いものは居ない」といううぬぼれの意味で用いられる[21]。
脚注
- ^ 天にちあ、やおらあり、たつやおま、用語 | 読むページ | 大谷大学
- ^ 禅語「天上天下唯我独尊」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト
- ^ 禅語に親しむ 平成26年度: 天上天下唯我独尊(著・木村文輝)
- ^ コトバンク:故事成語を知る辞典 「天上天下唯我独尊」の解説
- ^ 門川徹眞「佛傳における誕生偈の形成過程」『印度學佛教學研究』第15巻第2号、日本印度学仏教学会、1967年、614-615頁、doi:10.4259/ibk.15.614、ISSN 0019-4344、 NAID 130003828683。
- ^ 梶山 2021, p. 31-35.
- ^ 佐々木閑『ブッダ 最期のことば』NHK出版 2016年、p22-24
- ^ 佐々木閑『ブッダ 最期のことば』NHK出版 2016年、p22-24
- ^ 佐々木閑『いかにして多様化したか 部派仏教の成立』NHK出版 2025年、p85-86
- ^ “新興宗教からマンガまでを貫く心性とその出離|仏陀再誕はあり得ない ②”. 佐藤哲朗(日本テーラワーダ仏教協会編集局長). 2025年8月20日閲覧。
- ^ “新興宗教からマンガまでを貫く心性とその出離|仏陀再誕はあり得ない ②”. 佐藤哲朗(日本テーラワーダ仏教協会編集局長). 2025年8月20日閲覧。
- ^ 植田重雄「宗教学的見地における仏身論」(1976年)
- ^ “新興宗教からマンガまでを貫く心性とその出離|仏陀再誕はあり得ない ②”. 佐藤哲朗(日本テーラワーダ仏教協会編集局長). 2025年8月20日閲覧。
- ^ a b 平川 1998, p. 15-17.
- ^ a b 石上 1993, p. 65.
- ^ “新興宗教からマンガまでを貫く心性とその出離|仏陀再誕はあり得ない ②”. 佐藤哲朗(日本テーラワーダ仏教協会編集局長). 2025年8月20日閲覧。
- ^
玄奘 (中国語), 大唐西域記/06, ウィキソースより閲覧。)
- ^ a b 清水俊史『ブッダという男 初期仏典を読みとく』筑摩書房〈ちくま新書〉、2023年。 ISBN 978-4480075949。161頁。
- ^ 西義人「近代における「天上天下唯我独尊」の説示(発表要旨)」日本仏教学会、2018年
- ^ 「人生が100倍オモシロくなる仏の教え」露の団姫
- ^ 。新明解四字熟語辞典(三省堂)
参考文献
- 梶山雄一『大乗仏教の誕生 「さとり」と「廻向」』講談社、2021年。 ISBN 978-4065237823。
- 石上善應『佛典講座5 仏所行讃』大蔵出版、1993年。 ISBN 978-4804354330。
- 平川彰『仏陀の生涯『仏所行讃』を読む』春秋社、1998年。 ISBN 978-4393132937。
関連項目
天上天下唯我独尊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 16:11 UTC 版)
「我」の記事における「天上天下唯我独尊」の解説
天の上にも下にも尊い者は自分一人である、という言葉。仏陀が生まれた時、両手の親指でそれぞれ天地をさしてこれを表していたという伝説がある。現代では、極端なナルシズムやエゴイズムを批判して使われることが多い。
※この「天上天下唯我独尊」の解説は、「我」の解説の一部です。
「天上天下唯我独尊」を含む「我」の記事については、「我」の概要を参照ください。
天上天下唯我独尊
出典:『Wiktionary』 (2021/08/11 10:39 UTC 版)
成句
天上 天下 唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん、てんじょうてんがゆいがどくそん)
- (仏教) 世界中において、人間のみが解脱することができるので尊いの意。釈迦が生まれたとき、一方の手は下(天下界)もう一方の手は上(天上界)を指し、7歩歩いて辺りを顧みてから言ったとされる語。
- (語義1より転じて、但し誤用)この世には、自分より尊いものはいないと自惚れる様。ワンマン、乃公出でずんば。「唯我独尊」のみで用いることが多い。
出典
三蔵法師として知られる唐僧玄奘が著した『大唐西域記』中の誕生偈と呼ばれる偈文の一節。
翻訳
「天上天下唯我独尊」の例文・使い方・用例・文例
- 天上天下唯我独尊.
- 天上天下唯我独尊
天上天下唯我独尊と同じ種類の言葉
六道に関連する慣用句 | 餓鬼の物をびんずる 餓鬼も人数 天上天下唯我独尊 天使が通る 天命を知る |
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