冀察政務委員会時代
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1935年(民国24年)6月、張北事件の事後処理のため、宋哲元腹心の秦徳純が中国側代表として日本側代表の土肥原賢二と交渉する。その結果、土肥原・秦徳純協定(秦土協定)が締結された。この協定により、宋哲元は察哈爾省政府主席を罷免され、深い反感を抱いた。しかし7月、梅津・何応欽協定(何梅協定)により国民党(国民政府)の主力軍は河北省から撤退せざるを得なくなる。この結果として、非直系の宋哲元が平津衛戍司令に任命されることになった。 同年末には、宋哲元は冀察政務委員会委員長を兼任し、さらには平津衛戍司令を改組した冀察綏靖公署主任に任命された。これにより、宋哲元は河北省を強力な自立勢力圏として、蔣介石の中央が容易に手出しできないようにさせた。その一方で、国民党や中国共産党、さらには日本も含め、国内外の各種政治勢力を相手に複雑な交渉を担当しなければならない立場となった。また冀察政務委員会設立の抗日運動を取り締まるなど、日本に対して妥協的だった。 特に日本に対しては、完全なる敵対姿勢もとれず、逆に和平の姿勢では国内世論の攻撃を受けるというジレンマに陥っている。なお1936年(民国25年)8月19日の宋哲元委員長歓迎宴会には、宋哲元と秦徳純に対し、日本側は今井武夫、牟田口廉也、河辺正三、松村孝良、川越茂などが出席した。また宋哲元は、北京武官の今井武夫、支那駐屯軍の田代皖一郎、香月清司、橋本群、第29軍軍事顧問の桜井徳太郎とは関係は良好であった。 1937年(民国26年)7月、盧溝橋事件が勃発した後、宋哲元は日本軍側との人脈を生かして、いったんは停戦に持ち込んだ。7月18日に宋哲元は「自分は今回の事変について甚だ遺憾に思ひます。今度のことについては軍司令官(香月中将)の指導を仰ぐことにしたいと思ひますから何事によらず指示に与りたい」という丁寧な挨拶で香月中将に謝罪を行い、19日には停戦協定を樹立した。しかし結局、宋哲元の第29軍は反日感情により何度も発砲を繰り返したために日本軍の主要な攻撃目標の一つとされた。宋哲元は厳しい政治環境の中で一時故郷に戻るなど、抗戦態度の決定に逡巡した。しかし第29軍の内部の気風は強い抗日で、日本軍も攻撃意思が明確だったために、和平など衝突回避の方策はとれなかった。しかも蔣介石はこの停戦協定に反発して、北京に派遣された熊斌は7月22日、天津にいた宋哲元を北平に呼び、主権と領土を守るためには、日本軍の甘言にまどわされず、抗戦を決意しなければならないと説いた。宋哲元もこの説得によってようやく中央の堅い決意を理解し、抗戦の心を決めた。しかし結局、宋哲元率いる第29軍は一部地方で激しく抗戦したものの、敗北して北平・天津を放棄した。逡巡により組織だった防御ができないまま北平・天津を喪失した宋は、長城抗戦から一転して、中国の国内世論から激しい糾弾にさらされた。
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