冀察政務委員会時代とは? わかりやすく解説

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冀察政務委員会時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/28 21:37 UTC 版)

宋哲元」の記事における「冀察政務委員会時代」の解説

1935年民国24年6月張北事件事後処理のため、宋哲元腹心秦徳純中国側代表として日本側代表の土肥原賢二交渉するその結果土肥原・秦徳純協定(秦土協定)が締結された。この協定により、宋哲元察哈爾省政府主席罷免され、深い反感抱いた。しかし7月梅津・何応欽協定(何協定)により国民党国民政府)の主力軍は河北省から撤退せざるを得なくなる。この結果として、非直系宋哲元平津衛戍司令任命されることになった同年末には、宋哲元冀察政務委員会委員長兼任しさらには平津衛戍司令改組した冀察綏靖公署主任任命された。これにより、宋哲元河北省強力な自立勢力圏として、蔣介石中央容易に手出しできないようにさせた。その一方で国民党中国共産党さらには日本含め国内外各種政治勢力相手複雑な交渉担当しなければならない立場となった。また冀察政務委員会設立抗日運動取り締まるなど、日本に対して妥協的だった。 特に日本に対しては、完全なる敵対姿勢もとれず、逆に和平姿勢では国内世論攻撃を受けるというジレンマに陥っている。なお1936年民国25年8月19日宋哲元委員長歓迎宴会には、宋哲元秦徳純対し日本側は今井武夫牟田口廉也河辺正三松村孝良、川越茂などが出席した。また宋哲元は、北京武官今井武夫支那駐屯軍田代皖一郎香月清司橋本群、第29軍事顧問桜井徳太郎とは関係は良好であった1937年民国26年7月盧溝橋事件勃発した後、宋哲元日本軍側との人脈生かして、いったんは停戦持ち込んだ7月18日宋哲元は「自分今回事変について甚だ遺憾に思ひます。今度のことについては軍司令官香月中将)の指導を仰ぐことにしたいと思ひますから何事によらず指示与りたい」という丁寧な挨拶香月中将謝罪行い19日には停戦協定樹立した。しかし結局宋哲元の第29軍は反日感情により何度も発砲繰り返したために日本軍主要な攻撃目標一つとされた。宋哲元厳し政治環境の中で一時故郷に戻るなど、抗戦態度決定逡巡した。しかし第29軍の内部気風は強い抗日で、日本軍攻撃意思明確だったために、和平など衝突回避方策はとれなかった。しかも蔣介石はこの停戦協定反発して北京派遣され熊斌7月22日天津にいた宋哲元北平呼び主権領土を守るためには、日本軍甘言にまどわされず、抗戦決意しなければならない説いた宋哲元もこの説得によってようやく中央の堅い決意理解し抗戦の心を決めた。しかし結局宋哲元率いる第29軍は一部地方激しく抗戦したものの、敗北して北平天津放棄した逡巡により組織だった防御できないまま北平天津喪失した宋は、長城抗戦から一転して中国の国内世論から激し糾弾さらされた。

※この「冀察政務委員会時代」の解説は、「宋哲元」の解説の一部です。
「冀察政務委員会時代」を含む「宋哲元」の記事については、「宋哲元」の概要を参照ください。

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