冀城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/17 19:43 UTC 版)
建安年間(196~220)中頃、趙昂は参軍事に就任したため家族を連れて冀城に移住した。 建安18年(213年)に馬超が冀県を襲うと、王異は自ら弓籠手を身に着け応戦した。また自分の装飾品や高価な衣服を外し兵に褒美として与え、士気を高めた。8か月に及ぶ馬超の猛攻により城中は飢えに苦しんだため、刺史の韋康は馬超に和議を求めた。その決断には、長安にいる夏侯淵の救援が望めないという事があった。趙昂や楊阜が韋康の降伏に反対したものの聞き入れられなかったため、趙昂は帰宅して妻にその事を語った。すると王異は「君主には己を諌める臣下がおり、臣下は非常時に専断が認められています。救援が近くまで来ていないとは言い切れません。兵を鼓舞して戦い続け、節義を全うしてから死にましょう。降伏はいけません」と言った。 この言葉で降伏を考え直した趙昂は、韋康を引き止めようと再び戻ったが、既に韋康が馬超に降伏した後だった。
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