冀北学舎とは? わかりやすく解説

静岡県立掛川西高等学校

(冀北学舎 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/25 05:45 UTC 版)

静岡県立掛川西高等学校(しずおかけんりつ かけがわにしこうとうがっこう)は、静岡県掛川市城西一丁目に所在する県立高等学校


  1. ^ 厳密には校訓ではなくスローガン
  2. ^ 市指定文化財一覧表(掛川市)



冀北学舎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:01 UTC 版)

静岡県立掛川西高等学校」の記事における「冀北学舎」の解説

前述にもあるよう当校の起源は「冀北学舎」に遡る。 既に郷党の子弟の教育情熱を注いでいた岡田良一郎は、英・国・数の三科揃えた私塾開設思い立ち1877年明治10年7月遠江国佐野郡倉真村(現掛川市)の自宅開放して、「冀北学舎」と命名したこの先的な私塾開設天下に知られ遠く関東九州からも教えを請う集う者が多く、その数は200人に達したとされる岡田私塾に「冀北」の名を冠した直接の典拠は、かの著名な中唐文人韓退之書いた『送温処土赴河陽郡序』にあると考えられている。「冀北」とは中国古の冀州北部(現河北省)を意味し古来良馬多く産することで有名である伯楽が冀北の野に駿馬得た故事倣い岡田は自らを伯楽比し、冀北学舎から俊秀人物輩出しようと深く心中期して命名であった推察される。 塾生中からは、文部大臣岡田良平内務大臣宮内大臣一木喜徳郎東京帝国大学教授山崎覚次郎を始め後年日本背負有数の人材育っていった。 塾生教育傍ら岡田県立普通中学校設立にも奔走し1880年明治13年4月県会可決された。掛川中学校沿革の記すところによれば「明治13年8月静岡県立掛川中学校設置サレ佐野城東郡長岡良一郎学校長兼務ス。」とあり、岡田私塾「冀北学舎」の斎主静岡県立掛川中学校初代校長兼ねたことになり、また私塾果た役割これを機に掛川中学校移っていくことになる。やがて、その使命終えた「冀北学舎」は1884年明治17年)に閉鎖された

※この「冀北学舎」の解説は、「静岡県立掛川西高等学校」の解説の一部です。
「冀北学舎」を含む「静岡県立掛川西高等学校」の記事については、「静岡県立掛川西高等学校」の概要を参照ください。

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