河井彌八
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河井彌八
かわい やはち
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河井 彌八
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生年月日 | 1877年10月24日 |
出生地 | ![]() |
没年月日 | 1960年7月21日(82歳没) |
所属政党 | 緑風会 |
称号 | 従二位![]() |
親族 | 河井重藏(父) 館林三喜男(娘婿) |
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在任期間 | 1953年5月19日 - 1956年4月3日 |
天皇 | 昭和天皇 |
選挙区 | 静岡県地方区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1947年5月3日 - 1956年6月3日 |
在任期間 | 1938年1月7日 - 1947年5月2日 |
河井 彌八(かわい やはち、1877年(明治10年)10月24日 - 1960年(昭和35年)7月21日[1])は、日本の官僚・政治家。侍従次長や参議院議長(第4代)を歴任する。静岡県出身。
来歴
生い立ち
静岡県佐野郡上張村にて生まれた[2][† 1][† 2]。1897年(明治30年)静岡県尋常中学校卒業。1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業[3]。
官僚として
内務省に入省して佐賀県内政部長代理などを歴任する。1918年(大正7年)に内閣法制局に移り、翌年に貴族院書記官長、1926年に内大臣府秘書官長となり、1930年(昭和5年)から7年間にわたって皇后宮大夫兼侍従次長として昭和天皇・香淳皇后の側近として仕えた。
政治家として
1938年(昭和13年)1月7日に貴族院議員に任命された[4][5]。貴族院では同成会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任[1]。この間、鉄道会議議員を兼ねた。また大日本報徳社社長ともなっている。
サツマイモ栽培や砂防林の普及運動に力を尽くし「サツマイモ博士」とあだ名された[6]。 1943年(昭和18年)11月22日には、昭和天皇に謁見する機会を得て、甘藷増産運動を通じた増産、植林と砂防の重要性について奏上を行った[7]。
戦後、第1回参議院議員通常選挙に静岡県地方区から立候補し、参議院議員に当選した。当選後は緑風会に所属し、3年後の第2回通常選挙でも再選された[8]。
1953年(昭和28年)には参議院議長に就任した。1956年(昭和31年)の第4回通常選挙では落選し、高齢だったこともあり政界引退を表明した。没後に従二位・勲一等旭日桐花大綬章が授章された。
人物
1955年3月26日、河井は鳩山一郎とともにフリーメイソン第二階級に昇進した[9][10][要出典]。
家族・親族
河井家は代々庄屋を務めていた家系である。もともと河井家は、寛永年間頃に遠江国佐野郡掛川宿に住んでいた三河屋徳兵衛を家祖としている[2][† 3]。その後、2代を経て当主が三河屋弥八を名乗り[2]、以降は歴代当主が「弥八」を襲名していた[2]。掛川藩の御用達を務めるほどの繁栄を見せたが[2]、文政年間に三度火事に罹災したことから[2]、掛川宿の南に位置する上張村に邸宅を移すことにした[2]。父の河井重藏は9代目の当主にあたる[11][12]。重藏は、静岡県会議員や衆議院議員などを歴任した。
- 河井重高(祖父[13]) - 農家[14]
- 河井重藏(父[2]) - 政治家[15]
- 河井昇三郎(兄弟[13]) - 実業家[13]
- 角替利策(姉妹の夫[13]) - 農学者[13]
- 館林三喜男(娘婿[13]) - 政治家[13]
公刊日記
- 『昭和初期の天皇と宮中 侍従次長河井弥八日記』(全6巻、岩波書店)、1993-94年[16]。岩波オンデマンドブックス、2025年
- 『河井 弥八日記 戦後篇』(全5巻、信山社出版)、2015-20年[17]
- 編・刊行
- 『一木先生回顧録』河井彌八編・刊行、1954年12月。 NCID BN05933477。全国書誌番号: 55008337。
栄典
脚注
註釈
出典
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』115頁。
- ^ a b c d e f g h 前田寿紀「戦中・戦後における『大日本報徳社』の甘藷増産活動に関する研究(2)――《丸山方作日記》《河井弥八日記》の分析を中心に(その1)」『淑徳大学社会学部研究紀要』38巻、淑徳大学社会学部、2004年3月12日、259頁。
- ^ 『大日本人物史 : 銀婚記念 1925年』大日本人物史編纂社、1925年、か15頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、46頁。
- ^ 『官報』第3302号、昭和13年1月8日。
- ^ 前田寿紀『戦中・戦後甘藷増産史研究』<淑徳大学総合福祉学部研究叢書22>学文社、2006年
- ^ 宮内庁『昭和天皇実録第九』東京書籍、2016年9月29日、240頁。 ISBN 978-4-487-74409-1。
- ^ 参議院の第1回通常選挙は全議席の選出が行われ、下位当選者の任期を3年と定めて次の選挙における半数改選議席としており、河井はこれに該当した。
- ^ Freemasonry and Modern Japanese History By Tim Wangelin , Far East Lodge No.1 , 2015-9-11閲覧。
- ^ 赤間88ページによれば1955年5月25日に「昇進が行われた」とある。
- ^ “田中正造の書簡、掛川で発見…市教委が公開へ”. 読売新聞(YOMIURI ONLINE). (2014年10月13日). オリジナルの2014年10月21日時点におけるアーカイブ。
- ^ “足尾鉱毒告発、田中正造書簡に伊藤博文の風刺画”. 読売新聞(YOMIURI ONLINE). (2014年10月13日). オリジナルの2014年10月16日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b c d e f g 前田寿紀「戦中・戦後における『大日本報徳社』の甘藷増産活動に関する研究(2)――《丸山方作日記》《河井弥八日記》の分析を中心に(その1)」『淑徳大学社会学部研究紀要』38巻、淑徳大学社会学部、2004年3月12日、260頁。
- ^ 掛川市教育委員会社会教育課編集『掛川の人物誌』掛川市教育委員会、1985年、23頁。
- ^ 前田寿紀「戦中・戦後における『大日本報徳社』の甘藷増産活動に関する研究(2)――《丸山方作日記》《河井弥八日記》の分析を中心に(その1)」『淑徳大学社会学部研究紀要』38巻、淑徳大学社会学部、2004年3月12日、284頁。
- ^ 昭和改元した1926年から1932年までの日記。粟屋憲太郎・小田部雄次・高橋紘 解説・校訂
- ^ 尚友倶楽部/中園裕・内藤一成・村井良太・奈良岡聰智・小宮京 編。5巻目に通巻索引。中央公論(2013年7・8月号)で、『参議院議長河井弥八日記』として先行紹介(内藤一成解説)
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
参考文献
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
関連項目
議会 | ||
---|---|---|
先代 佐藤尚武 |
![]() 第4代:1953年 - 1956年 |
次代 松野鶴平 |
先代 新設 伊達源一郎 |
![]() 1948年 - 1950年 1950年 - 1952年 |
次代 伊達源一郎 竹下豐次 |
公職 | ||
先代 高橋誠一郎 |
![]() 1956年 - 1960年 |
次代 矢代幸雄 委員長代理 |
先代 渡部信 長官事務取扱 |
![]() 1932年 - 1936年 |
次代 木下道雄 |
先代 珍田捨巳 |
![]() 1927年 - 1932年 |
次代 広幡忠隆 |
先代 大塚常三郎(→欠員) |
![]() 1926年 - 1927年 |
次代 (欠員→)岡部長景 |
先代 柳田国男 |
![]() 1919年 - 1926年 |
次代 成瀬達 |
非営利団体 | ||
先代 一木喜徳郎 |
大日本報徳社社長 第4代:1945年 - 1960年 |
次代 戸塚九一郎 |
固有名詞の分類
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