小栗栖香平
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小栗栖 香平(おぐるす こうへい、1858年(安政5年) - ?)は、明治期の官僚、教育者、児童新聞社長。
経歴
肥後国生まれ。加藤啓明の二男。教部省の神沸試験に合格し、外国語学校へ入学。のちに慶應義塾に転じ1878年(明治11年)卒業。1885年(明治18年)宮内省華族局四等属に転じ「華族世襲財産法及び其施行手続」を草案する。翌年逓信省三等属となり、フランス、ボールベルの理科訓導を翻訳し、教科書に採用しようとするが案が通らず辞任。実用英学院を創立し百余名の生徒を得る。1902年(明治35年)児童新聞社を創立して「児童世界」を刊行。
正確な没年月日は不詳であるが、1922年(大正11年)に発行された「慶応義塾総覧」の卒業生名簿に、発行の時点で既に死亡していたことを意味する「△」と共に名前が記載されていた。
参考文献
- 三田商業研究会 編『慶應義塾出身名流列伝』実業之世界社、1909年(明治42年)6月 。(近代デジタルライブラリー)
- 慶応義塾 編『慶応義塾総覧 大正11年』慶応義塾、1922年 。(近代デジタルライブラリー)
固有名詞の分類
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