河井重高
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かわい しげたか
河井 重高
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生誕 | 1834年 (旧暦天保5年) ![]() |
国籍 | ![]() |
職業 | 農家 |
子供 | 河井重藏(長男) |
親戚 | 河井彌八(孫) 河井昇三郎(孫) 角替利策(義孫) 館林三喜男(義曽孫) |
河井 重高[1](かわい しげたか)は、日本の農家[1]。通称は弥八郎(やはちろう)[1][2][† 1][† 2]。
遠江国佐野郡上張村庄屋[1]、掛川藩人夫隊宰領[3]、などを歴任した。
概要
遠江国出身の農家であり[1]、佐野郡上張村の庄屋[1](名主[1][4])を務めていた。掛川城に侵入して減租を直訴したことから[1][4]、義民としても知られている[3]。異国船の来航に際しては、掛川藩の領民で結成された人夫隊の宰領に任じられ[3]、沿岸警備にも貢献した[3]。
来歴
生い立ち
1834年(旧暦天保5年)[2]、遠江国佐野郡上張村にて生まれた[2][† 3][† 4]。生家である河井家は富農であった[1]。重高は掛川藩により庄屋に任じられ[1]、村政を預ることになった。
安政年間になると、厳しい旱魃をはじめ[1]、地震[2]、台風[2]、洪水[2]、疫病など[2]、さまざまな災害に見舞われるとともに[4]、掛川藩の領内は凶作に陥った[1]。しかも当時の掛川藩は財政が困窮しており[1]、農民に重い年貢を課していた[1]。領民は困窮していたが[1]、検見の役人は何の対応もしなかった[1]。そこで、掛川藩の領内の四十数村の庄屋が一堂に会して協議し[1][4]、減租を願い出たものの[4]、掛川藩がこれを認めることはなかった[4]。掛川藩を含む一帯はいつ一揆が起きてもおかしくない緊迫した情勢となり[3]、不穏な状況となっていた。この事態を受け、重高は初馬村の庄屋を務めている親戚の榛葉作平と相談し[1][† 5][† 6]、事ここに至っては最終手段を取るしかないとの結論に達した[1][4]。
直訴の決行

ある夜、重高と榛葉作平は武士の格好に身を包み[1][4]、御用提灯を掲げることで[1][4]、城に出仕する掛川藩の家臣に扮した。さらに妻に対して打首覚悟での行動だと告げたうえで[4]、闇に紛れて掛川城を目指して出発した[1][4]。城に入るには門を通らねばならないが、夜は門は固く閉じられている。そこで重高と作平は「緊急出仕、国家老太田織部様へ通る者である。早く門を開かせよ」[1]などと巧みに主張し、門番を叩き起こした[4]。すっかり騙された門番は門を開けてしまったため[1]、重高と作平は城内に侵入することに成功し[1][4]、そのまま直訴するに至った[1][4]。重高の孫である石間たみが遺したと伝わる回顧録には、当時の重高の様子について「夜陰ニ乗じ緊急出仕と偽り門番を呼起して直ちニ城内ニ入り殿様ニ減租の直訴をしました」[4][† 7]と記されている。
城に不法侵入したことで家中は大騒ぎとなり[1][4]、家臣に非常召集が掛けられ[1]、重高と榛葉作平は捕縛された[1][4]。また、上張村に残してきた重高の家族らも捕縛され[3][4]、掛川城に連行された[3][4]。重高の長男である河井重藏も、まだ赤ん坊であったが一緒に城に連行されている[4]。身分を詐称して城に不法侵入したうえに直訴に及んでおり、重高も家族も極刑を覚悟していたが[4]、結局無罪放免となった[3][4]。また、重高と作平の願いは聞き届けられ[3][4]、減租も認められることになった[3][4]。なお、検見役人と門番には御役御免の処罰が下された[3]。
沿岸警備
アメリカ合衆国の艦船が伊豆国賀茂郡の下田湊に来航すると、幕府は諸藩に対して用兵を命じ[3]、その警備に当たらせることにした[3]。これを受け、掛川藩では領民を召集して人夫隊を結成し[3]、使役用人として活用することにした[3]。その際に掛川藩は重高を人夫隊の宰領に任じた[3]。重高は掛川城下と下田湊とを往復して[3]、その任に当たった。また、遠江国城東郡の国安海岸や千浜海岸にて[† 8]、自前の望遠鏡を片手に異国船がいないか遠州灘を監視する任にもあたっていたという[6]。
人物
- 領民からの評価
- 城に侵入して直訴したとの報は驚きをもって迎えられた。義民として知られる佐倉惣五郎になぞらえて、掛川藩の領民は「佐倉の義挙にも似たことだ」[3]と賞賛した。のちに人夫隊で宰領を務めるなど[3]、その才覚が認められたことから、領内では「上張村の庄屋弥ハッツァマ」[3][† 9]として広く知られるようになった。
- 藩侯からの評価
- 直訴に対して何の罰も与えず[3][4]、そればかりか人夫隊の宰領に取り立てるなど[3]、掛川藩を治める太田家も重高の能力を評価していたことが窺える。その一方で、藩主は「我が領内での困り者は大和田の勘太郎と上張の河井弥八郎だ」[7][† 10]とも評しており、血気盛んな硬骨漢だった庄屋たちに困惑もしていたようである。
家族・親族
もともと河井家は、寛永年間頃に遠江国佐野郡掛川宿に住んでいた三河屋徳兵衛を家祖としている[2][† 11]。その後、2代を経て当主が三河屋弥八を名乗り[2]、以降は歴代当主が「弥八」を襲名していた[2]。掛川藩の御用達を務めるほどの繁栄を見せたが[2]、文政年間に三度火事に罹災したことから[2]、掛川宿の南に位置する上張村に邸宅を移すことにした[2]。重高は初めての上張村生まれの当主だという[2]。重高の血族や姻族には政治家や実業家などが多く[4]、昭和天皇の侍従次長を経て貴族院議員や参議院議員を務めた河井彌八がよく知られている[9][10]。また、報徳思想に関連する者も多い[4]。
- 河井重藏(長男[6]) - 政治家[4]
- 河井彌八(孫[2]) - 政治家[10]
- 河井昇三郎(孫[4]) - 実業家[4]
- 角替利策(義孫[4]) - 農学者[4]
- 館林三喜男(義曽孫[4]) - 政治家[4]
脚注
註釈
- ^ 掛川市教育委員会社会教育課の『掛川の人物誌』では「河井弥八郎重高」[1]と表記している。
- ^ 前田寿紀の「戦中・戦後における『大日本報徳社』の甘藷増産活動に関する研究(2)――《丸山方作日記》《河井弥八日記》の分析を中心に(その1)」では「河井弥八郎」[2]と表記している。
- ^ 静岡県佐野郡は、城東郡と合併し、1896年に小笠郡が設置された。
- ^ 静岡県佐野郡上張村は、南西郷村、下俣村、長谷村、杉谷村、結縁寺村と合併し、1889年に南郷村が設置された。
- ^ 静岡県佐野郡初馬村は、水垂村、北池新田と合併し、1889年に粟本村が設置された。
- ^ 掛川市教育委員会社会教育課の『掛川の人物誌』では「榛葉作平」[1]と表記しているが、前田寿紀の「戦中・戦後における『大日本報徳社』の甘藷増産活動に関する研究(2)――《丸山方作日記》《河井弥八日記》の分析を中心に(その1)」では「作兵衛」[4]と表記している。『掛川の人物誌』では榛葉作平の事績についても紙幅を割いて詳細に解説していることから[5]、当稿ではそちらに倣って「作平」とした。
- ^ 前田寿紀の「戦中・戦後における『大日本報徳社』の甘藷増産活動に関する研究(2)――《丸山方作日記》《河井弥八日記》の分析を中心に(その1)」では「殿様」[4]について「太田氏か」[4]としている。
- ^ 静岡県城東郡は、佐野郡と合併し、1896年に小笠郡が設置された。
- ^ 「弥ハッツァマ」[3](ヤハッツァマ)は、遠州弁で「弥八様」(ヤハチサマ)の意である。
- ^ 「大和田の勘太郎」[7]は、遠江国佐野郡大和田村の中山勘太郎を指す[3]。勘太郎も庄屋としてさまざまな事績で知られているが[8]、かつて年貢米を納付する際に門番の制止も聞かず銃で武装したまま掛川城御殿に入ったため騒動になっている[7]。
- ^ 遠江国佐野郡掛川宿は、下俣町、十九首町、仁藤村の大部分、大池村の一部、葛川村の一部と合併し、1889年に掛川町が設置された。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 掛川市教育委員会社会教育課編集『掛川の人物誌』掛川市教育委員会、1985年、23頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 前田寿紀稿「戦中・戦後における『大日本報徳社』の甘藷増産活動に関する研究(2)――《丸山方作日記》《河井弥八日記》の分析を中心に(その1)」『淑徳大学社会学部研究紀要』38巻、淑徳大学社会学部、2004年3月12日、259頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 掛川市教育委員会社会教育課編集『掛川の人物誌』掛川市教育委員会、1985年、24頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak 前田寿紀稿「戦中・戦後における『大日本報徳社』の甘藷増産活動に関する研究(2)――《丸山方作日記》《河井弥八日記》の分析を中心に(その1)」『淑徳大学社会学部研究紀要』38巻、淑徳大学社会学部、2004年3月12日、260頁。
- ^ 掛川市教育委員会社会教育課編集『掛川の人物誌』掛川市教育委員会、1985年、25-26頁。
- ^ a b 前田寿紀稿「戦中・戦後における『大日本報徳社』の甘藷増産活動に関する研究(2)――《丸山方作日記》《河井弥八日記》の分析を中心に(その1)」『淑徳大学社会学部研究紀要』38巻、淑徳大学社会学部、2004年3月12日、261頁。
- ^ a b c 掛川市教育委員会社会教育課編集『掛川の人物誌』掛川市教育委員会、1985年、25頁。
- ^ 掛川市教育委員会社会教育課編集『掛川の人物誌』掛川市教育委員会、1985年、24-25頁。
- ^ 前田寿紀稿「戦中・戦後における『大日本報徳社』の甘藷増産活動に関する研究(2)――《丸山方作日記》《河井弥八日記》の分析を中心に(その1)」『淑徳大学社会学部研究紀要』38巻、淑徳大学社会学部、2004年3月12日、270頁。
- ^ a b 前田寿紀稿「戦中・戦後における『大日本報徳社』の甘藷増産活動に関する研究(2)――《丸山方作日記》《河井弥八日記》の分析を中心に(その1)」『淑徳大学社会学部研究紀要』38巻、淑徳大学社会学部、2004年3月12日、284頁。
関連人物
関連項目
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