冀察政務委員会の終焉とは? わかりやすく解説

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冀察政務委員会の終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 14:24 UTC 版)

冀察政務委員会」の記事における「冀察政務委員会の終焉」の解説

1937年7月盧溝橋事件勃発すると同委員会日本軍との折衝行い宋哲元張自忠香月清司橋本群会見行いこのままなら解決できそうであったが、蔣介石宋哲元妥協禁じた二十九軍は7月11日現地停戦協定の後にも7月20日には盧溝橋城から日本軍銃撃加え同時に宝山方面にあった部隊一部日本軍攻撃したため日本軍応戦するという事件が起こり25日には廊坊事件起こした。翌26日には日本陸軍参謀総長支那駐屯軍武力行使容認指示し支那駐屯日本軍盧溝橋と八宝山部隊については27日正午北平城内兵と西苑部隊については28日正午期限とする退去勧告二十九軍に出した同日中国側広安門事件起こした。この事件は、直前起きた廊坊事件とともに中国側規範意識欠如残酷な面を見せつけ、中国側に対して全く反省期待できない誠意表れであり和平解決望み絶たれたと判断した日本軍支那駐屯軍7月27日夜半になって前日通告取消し改め冀察政務委員会委員長であり、二十九軍軍長でもあった宋哲元対し協定履行の不誠意屡次(るじ)の挑戦的行為とは最早我軍の隠忍し能(あた)はざる所であり、就中なかんずく広安に於ける欺瞞(ぎまん)行為は我軍を侮辱する甚(はなは)だしきものにして、断じて赦すべからざるのであるから、軍は茲(ここ)に独自の行動を執(と)る」ことを通告し、さらに北平城内戦禍避けるために中国側全ての軍隊城内から撤退させることを勧告した日本軍支那駐屯軍28日早朝から北平天津地方中国軍攻撃加える為、必要な部署用意し広報としては河北民衆敵視するものではなく列国権益とその居留民生命財産と安全を図り中国北部獲得意図がないことを布告し、これと同じ内容内閣書記官長談として発表された。駐屯軍28日から北平周辺中国軍対し攻撃開始し天津方面では28日夜半から中国軍攻撃開始され各方面日本軍勝利し2日間で中国軍掃蕩完了した日本軍総攻撃受けた二十九軍は、北平天津地区から駆逐されて国民革命軍合流した28日夜、宋哲元張自忠冀察政務委員会委員長、綏清交署主任及び北平市長の代理務めるように指示を出すと秦徳純馮治安とともに北平脱出した他方市民有志により治安維持会が組織されている。 冀察政務委員会では不在となった委員に対して8月3日付で補充が行われたが、同月5日には張自忠冀察政務委員会委員長代理辞し同月19日冀察政務委員会事務江朝宗託して解散した江朝宗北平地方維持会主席と北平市長を兼務していたがその業務として従来政務委員会行政事務一般引継いでいる

※この「冀察政務委員会の終焉」の解説は、「冀察政務委員会」の解説の一部です。
「冀察政務委員会の終焉」を含む「冀察政務委員会」の記事については、「冀察政務委員会」の概要を参照ください。

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