対日戦での活躍
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1930年(民国19年)5月、閻錫山らが反蒋介石の中原大戦を発動すると、傅作義は第4路軍指揮官などをつとめた。閻が敗北すると、張学良配下に転じる。翌年5月、第35軍軍長に任命され、さらに8月には、綏遠省政府主席となった。傅作義は、綏遠省の内政でもその手腕を発揮し、治安維持、農村基層組織改革、金融整理、都市・農村建設、教育事業などに好成績をあげた。 9月、満州事変が発生すると、徐永昌・宋哲元らと連名で抗日の声明文を発した。1933年(民国22年)1月、日本軍が山海関を攻撃して長城抗戦が勃発すると、傅は翌月に第7軍団総指揮に任じられる。4月末に自ら第59軍を率いて張家口から昌平へ急行した。5月23日、傅は日本軍第8師団と交戦を開始し、激戦により双方ともに大きな損害を出した。6月末、傅は綏遠省に引き返している。 1935年(民国24年)4月、傅作義は陸軍2級上将に昇進した。翌年11月、李守信率いる蒙古軍政府軍と王英率いる大漢義軍が綏遠省へ侵攻してくると、傅はこれを迎撃・駆逐しようとする。傅は11月24日、百霊廟の蒙古軍政府軍を撃破し、12月4日には、これを完全に駆逐して勝利を収めた(綏遠事件)。 1937年(民国26年)以降の日中戦争(抗日戦争)では、傅作義は第2戦区第7集団軍総司令、第2戦区北路軍総司令、第8戦区副司令などを歴任している。忻口戦役、太原防衛戦、五原戦役など大きな戦いに参戦した。傅の戦績は良好で、1939年(民国28年)には国民政府から青天白日勲章を授与されている。抗戦中の傅は中国共産党(八路軍)ともよく連携し、自軍の強化のために軍事交流を行った。しかし、このために閻錫山から「赤化」「七路半軍」との非難を浴びている。 抗戦勝利直前の1945年(民国34年)7月、傅は第12戦区司令長官に任じられた。勝利後は熱河省、察哈爾省、綏遠省の日本軍降伏受諾事務を担当している。
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