対日宥和路線と汪兆銘狙撃事件とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 対日宥和路線と汪兆銘狙撃事件の意味・解説 

対日宥和路線と汪兆銘狙撃事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 23:36 UTC 版)

汪兆銘」の記事における「対日宥和路線と汪兆銘狙撃事件」の解説

汪兆銘狙撃事件」も参照 汪はその後政府内の反対派批判を受けつつ、「日本と戦うべからず」を前提とした対日政策進めた日本側からすれば、広田弘毅外務大臣重光葵外務次官とする和協外交は、「日満三国提携共助」によって対中国関係の改善進めて平和を確保しようとする方向性をもっていた。行政院長外交部長であった汪はこれに応じ南京総領事須磨弥吉郎対し満洲国承認には同意できないでも、赤化防止急務高調して中国国民満洲問題忘れさせる以外にないと語るまでに対日妥協姿勢示した1935年11月1日汪兆銘は、国民党六中全会開会式記念撮影の際、カメラマンによって狙撃された。汪は南京中央病院搬送され、妻の陳璧君とのちに女婿となる何文傑はすぐさま駆けつけた。汪は2人対し、「心配はいらない死ぬほどのことではないから」と述べた。汪は耳の上左腕背中に3発の弾を受けた急所外れており、生命別状はなかった。ただし、このとき体内から摘出できなかった背中の弾が、のちに骨髄腫原因となり、汪の死期早めたとされる犯人は晨光通訊社の記者としてその場にいた孫鳳鳴で、第十九路軍の排長(小隊長)だった人物である。事態急変のなかで、いち早く犯人駆け寄って犯人蹴り倒したのは張学良だった(汪は、これに感謝し、のちに張にステッキ送っている)。その後、汪の護衛兵犯人撃ち、ただちに捕らえたが、翌日犯人死亡しており、背後関係今もって謎のままである。汪の対日外交への不満が犯行動機とされている。 療養のため汪は、1936年2月ヨーロッパへ渡りドイツ療養行いドイツ政府関係者とも交流持って、翌1937年1月中国帰国した。この旅では、汪は陳璧君ともなっておらず、彼女に留守中の情報収集をまかせ、腹心の曾仲鳴を同行させた。また、この旅は、日本・中国ドイツ反共同盟可能性を探るのも目的のひとつであったこの間対日交渉蔣介石委ねられたが、そのさなかの1936年12月12日西安事件起こっている。帰国前、汪兆銘は「安内攘外」の声明発し反共第一主張した。しかし、西安張学良連行されたのちすぐに釈放され蔣介石は、すでに連共抗日路線鞍替えしていたのであった。汪は、たび重なる外遊反共主義によって党内権威失っていた。帰国した汪には国民党ポストはなかったのである

※この「対日宥和路線と汪兆銘狙撃事件」の解説は、「汪兆銘」の解説の一部です。
「対日宥和路線と汪兆銘狙撃事件」を含む「汪兆銘」の記事については、「汪兆銘」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「対日宥和路線と汪兆銘狙撃事件」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「対日宥和路線と汪兆銘狙撃事件」の関連用語

1
6% |||||

対日宥和路線と汪兆銘狙撃事件のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



対日宥和路線と汪兆銘狙撃事件のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの汪兆銘 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS