対日宥和路線と汪兆銘狙撃事件
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「汪兆銘」の記事における「対日宥和路線と汪兆銘狙撃事件」の解説
「汪兆銘狙撃事件」も参照 汪はその後も政府内の反対派の批判を受けつつ、「日本と戦うべからず」を前提とした対日政策を進めた。日本側からすれば、広田弘毅を外務大臣、重光葵を外務次官とする和協外交は、「日満支三国の提携共助」によって対中国関係の改善を進めて平和を確保しようとする方向性をもっていた。行政院長兼外交部長であった汪はこれに応じ、南京総領事の須磨弥吉郎に対し、満洲国の承認には同意できないまでも、赤化防止の急務を高調して中国国民に満洲問題を忘れさせる以外にないと語るまでに対日妥協姿勢を示した。 1935年11月1日、汪兆銘は、国民党六中全会の開会式の記念撮影の際、カメラマンによって狙撃された。汪は南京中央病院に搬送され、妻の陳璧君とのちに女婿となる何文傑はすぐさま駆けつけた。汪は2人に対し、「心配はいらない。死ぬほどのことではないから」と述べた。汪は耳の上、左腕、背中に3発の弾を受けたが急所は外れており、生命に別状はなかった。ただし、このとき体内から摘出できなかった背中の弾が、のちに骨髄腫の原因となり、汪の死期を早めたとされる。犯人は晨光通訊社の記者としてその場にいた孫鳳鳴で、第十九路軍の排長(小隊長)だった人物である。事態の急変のなかで、いち早く犯人に駆け寄って犯人を蹴り倒したのは張学良だった(汪は、これに感謝し、のちに張にステッキを送っている)。その後、汪の護衛兵が犯人を撃ち、ただちに捕らえたが、翌日犯人は死亡しており、背後関係は今もって謎のままである。汪の対日外交への不満が犯行動機とされている。 療養のため汪は、1936年2月にヨーロッパへ渡り、ドイツで療養を行い、ドイツ政府関係者とも交流を持って、翌1937年1月、中国に帰国した。この旅では、汪は陳璧君をともなっておらず、彼女に留守中の情報収集をまかせ、腹心の曾仲鳴を同行させた。また、この旅は、日本・中国・ドイツの反共同盟の可能性を探るのも目的のひとつであった。この間の対日交渉は蔣介石に委ねられたが、そのさなかの1936年12月12日、西安事件が起こっている。帰国前、汪兆銘は「安内攘外」の声明を発し、反共第一を主張した。しかし、西安で張学良に連行されたのちすぐに釈放された蔣介石は、すでに連共抗日路線に鞍替えしていたのであった。汪は、たび重なる外遊と反共主義によって党内の権威を失っていた。帰国した汪には国民党のポストはなかったのである。
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