対日和平工作からの離脱と重慶国民政府への復帰とは? わかりやすく解説

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対日和平工作からの離脱と重慶国民政府への復帰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 14:35 UTC 版)

陶希聖」の記事における「対日和平工作からの離脱と重慶国民政府への復帰」の解説

1937年民国26年8月陶希聖国防参議会参議員に任ぜられ、日中戦争抗日戦争勃発後は武漢芸文研究会組織し、その主任となった翌年6月第1期国民参政参政員に任ぜられたが、まもなく汪兆銘随従してハノイ脱出し日本との和平工作従事することになる。1939年民国28年9月、汪派の国民党中央常務委員委員中央宣伝部部長に任ぜられた。しかし1940年民国29年1月日本側の和平条件厳しさに不満を抱いた陶は、高宗武とともに香港逃亡し、『大公報紙上にて和平条件ある 日新関調整要綱暴露したのである。これは汪らに対して強烈な政治的打撃となった。しかし同年行われた桐工作により、過酷な和平条件緩和された。 1941年民国30年)には重慶移り軍事委員委員長侍従室第2処第5組少将組長に任ぜられた。このときの陶希聖は、蔣介石とされる中国命運』(『中国命運』)を実際に執筆し、さらに国民党機関紙中央日報』で総主筆つとめている。戦後1946年民国35年11月に、制憲国民大会代表に当選し、その翌年7月には国民党中央宣伝部副部長に任ぜられた。また、立法院立法委員にも選出されている。 1949年民国38年12月台湾逃れ以後総統府国策顧問国民党設計委員会主任委員中央党部第4組主任革命実践研究員講座など歴任した1968年民国57年)に退職し党中央評議委員改めて任ぜられる。 1988年民国77年6月27日台北市にて死去享年90

※この「対日和平工作からの離脱と重慶国民政府への復帰」の解説は、「陶希聖」の解説の一部です。
「対日和平工作からの離脱と重慶国民政府への復帰」を含む「陶希聖」の記事については、「陶希聖」の概要を参照ください。

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