対日和平工作からの離脱と重慶国民政府への復帰
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「陶希聖」の記事における「対日和平工作からの離脱と重慶国民政府への復帰」の解説
1937年(民国26年)8月、陶希聖は国防参議会参議員に任ぜられ、日中戦争(抗日戦争)勃発後は武漢で芸文研究会を組織し、その主任となった。翌年6月、第1期国民参政会参政員に任ぜられたが、まもなく汪兆銘に随従してハノイへ脱出し、日本との和平工作に従事することになる。1939年(民国28年)9月、汪派の国民党で中央常務委員会委員兼中央宣伝部部長に任ぜられた。しかし1940年(民国29年)1月、日本側の和平条件の厳しさに不満を抱いた陶は、高宗武とともに香港へ逃亡し、『大公報』紙上にて和平条件である 日華新関係調整要綱を暴露したのである。これは汪らに対して強烈な政治的打撃となった。しかし同年に行われた桐工作により、過酷な和平条件は緩和された。 1941年(民国30年)には重慶に移り、軍事委員会委員長侍従室第2処第5組少将組長に任ぜられた。このときの陶希聖は、蔣介石著とされる『中国の命運』(『中国之命運』)を実際に執筆し、さらに国民党機関紙『中央日報』で総主筆をつとめている。戦後の1946年(民国35年)11月に、制憲国民大会代表に当選し、その翌年7月には国民党中央宣伝部副部長に任ぜられた。また、立法院立法委員にも選出されている。 1949年(民国38年)12月、台湾に逃れ、以後は総統府国策顧問、国民党設計委員会主任委員、中央党部第4組主任、革命実践研究員総講座などを歴任した。1968年(民国57年)に退職し、党中央評議委員に改めて任ぜられる。 1988年(民国77年)6月27日、台北市にて死去。享年90。
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