対日政策とその影響
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李承晩の日本への反感は留まることを知らず、1954年のFIFAワールドカップ・予選アジア予選では「植民地支配した日本人を領土に入れるわけにはいかない」として敵地日本で2試合戦うことを条件にサッカー大韓民国代表の参加を許し、当時の代表監督に「もし(日本に)負けたら、玄界灘に身を投げろ」と言ったというエピソードがある。出場を決めた際には歓迎式と祝賀パレードが行われた。日本の大衆文化は「公序良俗に反する表現」として規制を受け、教育面でも反日教育を徹底。日帝時代を懐かしむことを公にすることさえ共産主義者などの反政府分子と同様に政治犯となり、韓国成立後のわずか2年で投獄された者の総数が日本統治時代の約35年間の投獄者数を超えるくらいだった。 戦後は、日本の朝鮮統治時代を具体的に知っている韓国国民が大多数だったが、こうした政治的弾圧から今の韓国では親日派として断罪される事が社会的に抹殺されるに等しくなってしまった。その一方で日帝時代に官僚として務めていたエリートや少なからず国策に協力していた財閥や企業は、その多くが独立後も李政権下で重用されたり政権の支持基盤となるなど、独立直後に謳われていた親日派処分は不十分に終わっている、今日の韓国の教科書では「李承晩政権は反共に徹するあまり、親日派の処分が不十分であった」といった趣旨の記述があり(金大中も自著の中で同じ内容の批判を述べている)、親日派の糾明は現代の韓国で主要な政治議題となっている(日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法を参照)。 後の朴正煕政権は日本との妥協点を模索し、1965年に佐藤栄作首相との間で「日韓基本条約」を批准した。朴正煕政権は日本からの多額の無償経済援助や借款を得るとともに、対日貿易が経済発展の唯一の方法として積極的に推進した。このような朴正煕政権の政策と対比して、李承晩政権の対日政策と1950年代の経済低迷との因果関係が指摘されている。 また、日本大衆文化の流入制限をしたことも、結果としてその剽窃や海賊版など知的財産権侵害が横行する事態に陥った。後に大韓民国でも著作権の概念が浸透し、また金大中政権以降、段階的に日本の大衆文化の開放が行われるようにはなったこともあって、今日では次第に改善されてきている。
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