対日早期講和論からANZUSへとは? わかりやすく解説

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対日早期講和論からANZUSへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 14:08 UTC 版)

太平洋集団安全保障構想」の記事における「対日早期講和論からANZUSへ」の解説

アジアでの冷戦緊張が高まる1949年9月イギリスのアーネスト・ベビン外相アメリカアチソン国務長官日本との早期講和合意する。しかし、オーストラリアニュージーランドフィリピン講和後の日本軍国主義台頭恐れ、「対日防衛 defense -against-Japan aspect」の必要を唱えたアメリカにとっても講和後の日本の動向懸念される問題であったが、NATO型の太平洋集団安全保障体制によって在日米軍引き続き日本駐留すれば日本抑制でき、「日本の防衛」と「日本からの防衛」を同時に実現できる考えようになった。しかし、1951年1月オーストラリア・ニュージーランド日本同盟国になることを拒否したため、アメリカ・オーストラリア・ニュージーランド三国太平洋安全保障条約(ANZUS)草案提起された。米統合参謀本部(Joint Chiefs of Staff,JCS)は、各国との個別条約軍事行動混乱の原因になるし、個別条約を結ぶとしたら日本以外との国と条約締結するべきではないとして当初ANZUS案に反対したが、のちにこれを容認締結にいたる。 欧州防衛共同体 1950年ヨーロッパでフランスルネ・プレヴァン首相汎ヨーロッパ防衛軍構想する欧州防衛共同体(EDC)を提唱した太平洋安全保障条約 1951年9月アメリカは、オーストラリア・ニュージーランド太平洋安全保障条約(ANZUS)を締結しアメリカ両国安全保障役割を担うことになった

※この「対日早期講和論からANZUSへ」の解説は、「太平洋集団安全保障構想」の解説の一部です。
「対日早期講和論からANZUSへ」を含む「太平洋集団安全保障構想」の記事については、「太平洋集団安全保障構想」の概要を参照ください。

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