対日本観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:25 UTC 版)
ヒトラーは『わが闘争』の中で、日本人について、「文化的には創造性を欠いた民族である」とし、日本語の発音を鵞鳥のようだと酷評している。『わが闘争』には日本人に対して差別的見解が多く、原文で読んだ井上成美は「ヒトラーは日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら小器用・小利口で役に立つ存在と見ている」として、ヒトラーやナチズムの根底には強固な反日主義・差別主義があるとみている。大日本帝国海軍によるマレー作戦と真珠湾攻撃の成功の報告を受けた際には「我々は戦争に負けるはずがない。我々は3000年間一度も負けたことのない味方ができたのだ」と語り対米宣戦を行ったが、当時の日本の快進撃を誇大発表と感じており、日本の発表を直接報道しない措置を承認している。 ナチズムが最もこだわる人種主義思想からすれば、白人かつ北方人種と考えられていたアングロサクソンの英米を心情的に応援するのは当然であったし、「アジア人によるアジア統治」を唱える大アジア主義や大東亜共栄圏は悪夢でしかなかった(特にインドの脱植民地化には猛反発していた)。つまるところ、日独の同盟やそれ以降の好意的な発言は、政治的利点による行動であって、思想的には非難すべき行動と見ていたのである。シュペーアによれば、有色人種の大国である日本との同盟について、イギリスがロシアとの対抗で結び、日露戦争後に解消された日英同盟を引き合いに出して正当化したという。『わが闘争』でも、第一次世界大戦前のオーストリアを重視したドイツの外交政策を批判する際、日英同盟と日露戦争を引き合いに出し日本の外交政策を称賛している。 軍事面ではヒトラーが実権を握った後も遣独潜水艦作戦のような協力があり、レーダーなど最新技術の提供も行われるなど、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}差別感情による影響は無かった[要出典]。 日本がドイツの最終的な敵国になるとの考えもしばしば口にしており、「近い将来、我々は東洋の覇者(日本)と対決しなければならない段階が来るだろう」とシュペーアたち側近に語っていたというエピソードがある。ポーランド侵攻直前にはイギリス大使ネヴィル・ヘンダーソン(英語版)に対し、「大戦争が起きれば各国が共倒れになり、唯一の勝者が日本になる」と伝えている。 一方、日独防共協定成立以降は、ヒトラーと多くの日本人が面会し、いずれもヒトラーが親日的であるという感想を持った。鳩山一郎は「彼の日本に対する憧憬は驚くべきものがある」とし、伍堂卓雄は「彼の日本に対する考え方は絶対的である」と捉え、駐独大使武者小路公共は「ヒトラーの日本贔屓は日露戦争の時からだ」と発言している。またヒトラーはポーランド戦役後大島浩大使に「貴国には『勝ってかぶとの緒を締めよ』という諺のあることを承知したが、これは誠に意味の深い言葉である。われわれは今こそ兜の緒を締めるべき時である」この日本の諺を好んで口にしている。 1939年にベルリンで開かれた「伯林日本古美術展」では、美術展を公式訪問したヒトラーが雪村の風濤図を含めた数点の美術品に深く興味を示したという報道が日本では行われたが、ドイツではヒトラーが興味を持った作品についてはほとんど報道されなかったことからも、ヒトラーの美術展訪問はあくまで儀礼的なものであった。 ヒトラーは「ユダヤ人は日本人こそが彼らの手の届かない相手だと見ている。日本人には鋭い直観が備わっており、さすがのユダヤ人も内から日本を攻撃できないということが分かっているのだ」と述べ、イギリスとアメリカが日本と和解すれば多大な利益を得られるが、その和解を妨害しているのがユダヤ人だと語っている。ボルマンメモの1945年2月13日付の記述では「私は中国人と日本人が我々より劣っていると見做したことはない。彼等は古代文明に属しており、彼等の過去が我々より優れていたと率直に認める。我々が我々の文明を誇れる権利があるように、彼等は過去に誇りを持つ権利がある。彼等が人種としての誇りを強固にすればするほど、私は彼等と容易に協力し合えるだろう」と述べている。また、同じボルマンメモの記録では「我々にとって日本は如何なる時でも友人であり、この戦争の中で我々は彼らを益々尊敬することを学んだ。ドイツと日本は一緒に勝つか、それとも、共に亡ぶかである」と述べたとされている。 これらの経緯や政治的理由から日本人が「名誉アーリア人」としての扱いを受けたという説もあるが、帝国市民法(ドイツ語版)などヒトラーが裁可した人種差別法では、日本人が明示的に厚遇を受けたわけではない。1934年に日本人が関わった事件の報道の際、人種法について触れないようにするという通達が行われたように、あくまで政治的配慮によって手心を加える範囲のものであった。また「我々ドイツ人は日本人に親近感など抱いてはいない。日本人は生活様式も文化もあまりにも違和感が大きすぎるからだ」とも述べている。
※この「対日本観」の解説は、「アドルフ・ヒトラー」の解説の一部です。
「対日本観」を含む「アドルフ・ヒトラー」の記事については、「アドルフ・ヒトラー」の概要を参照ください。
対日本観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 08:59 UTC 版)
雍熙元年(984年)3月、太宗は入宋した日本の使者である僧の奝然を厚遇し、紫衣を賜り、太平興国寺に住まわせた。引見した際、日本の国王(天皇)は代々一家が世襲し(万世一系)、その臣下も官職を世襲していると聞き、嘆息して宰相に次のように語った。 此島夷耳、乃世祚遐久、其臣亦継襲不絶、此蓋古之道也。中國自唐李之乱、寓縣分裂、梁周五代享歴尤促、大臣世冑、鮮能嗣続。朕雖徳慙往聖、常夙夜寅畏、講求治本、不敢暇逸。建無窮之業、垂可久之範、亦以為子孫之計、使大臣之後世襲禄位、此朕之心焉。 「島夷(日本、東の島の異民族/蛮族)であると言うのに、彼ら(天皇家)は万世一系であり、その臣下もまた世襲していて絶えていないという。これぞまさしく古の王朝の在り方である。中国は唐李の乱(朱全忠による禅譲)により分裂し、後梁・後周・五代の王朝は、その存続期間が短くており、大臣も世襲できる者は少なかった。朕の徳はたとえ太古の聖人に劣るかもしれないが、常日頃から居住まいを正し、治世について考え、無駄な時を過ごすことはせず、無窮の業を建て、久しく範を垂れ、子孫繁栄を図り、大臣の子等に官位を継がせるのが朕の願いである」 太宗は、皇帝のみならず臣下も下克上なしに続く王朝(理想上における太古の王朝)を目指していたことがわかる。
※この「対日本観」の解説は、「太宗 (宋)」の解説の一部です。
「対日本観」を含む「太宗 (宋)」の記事については、「太宗 (宋)」の概要を参照ください。
- 対日本観のページへのリンク