日本脅威論の形成とは? わかりやすく解説

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日本脅威論の形成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)

元寇」の記事における「日本脅威論の形成」の解説

浙江大学教授王勇弘安の役での敗戦その後日本武商船活動によって中国における対日本観大きく変化し凶暴勇猛な日本人像および日本脅威論が形成されていった指摘している。 例えば、南宋遺臣の鄭思肖は「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。たとえ十人百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人はなはだ気性烈しく犯すべからず。(中略倭刀きわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」 と述べ、また元朝文人呉莱は「今の倭奴は昔(白村江の戦い時)の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとするいわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。(中略)その重貨を出し公然と貿易する。その欲望満たされなければ城郭を燔して居民略奪する海道の兵は、猝かに対応できない。(中略士気を喪い国体弱めるのは、これより大きなことはない。しかし、その地を取っても国に益することはなく、またその人を掠しても兵を強めことはない」 と述べ日本征服無益としている。 また、明の時代鄭舜功著した日本研究書である『日本一鑑』では、元寇について「兵を喪い、以って恥を為すに足る」と評すなど、後の時代にも元寇記憶批判的に受け止められていたことが窺える元寇敗戦通してのこういった日本軍将兵勇猛果敢さや渡海侵攻困難性記憶は、後の王朝による日本征討論を抑える抑止力ともなった。元の後に興った明による日本征討論が、初代皇帝朱元璋洪武帝)、第3皇帝永楽帝第12代皇帝嘉靖帝時の3回渡って議論された。 そのうち朱元璋軍事恫喝含んで、明への朝貢倭寇鎮圧日本懐良親王要求した。ところが懐良親王は、もし明軍日本侵攻すれば対抗する旨の返書送って朱元璋要求受け付けなかった。この返書激怒した朱元璋であったが、クビライ日本侵攻敗北鑑みて日本征討思い止まったという。

※この「日本脅威論の形成」の解説は、「元寇」の解説の一部です。
「日本脅威論の形成」を含む「元寇」の記事については、「元寇」の概要を参照ください。

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