日本聴能言語士協会の設立(1974年)と分裂(1981年) - 養成課程をめぐる内部対立
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1974年、聴覚言語障害に携わる者で聴覚言語懇話会が発足し(翌年、日本聴能言語士協会に改称)、STの4年制大学での養成による国家資格を目指して運動を開始した。初代会長には笹沼澄子が就いた。1977年には、日本学術会議が「リハビリテーションに関する教育・研究体制等についての勧告」を発表し、「言語療法士の資格制度を創設し、4年制総合大学において、大学院課程と連なる形で早急に実現すべきこと」としつつも、「現在のはなはだしい不足充足のため、暫定時に3年制短期大学の発足、聴能訓練士の養成等も考慮」との文言も盛り込まれた。 1979年、日本聴能言語士協会総会で「聴能言語士の資格制度案の骨子」が承認された。受験資格は「学校教育法に基づく4年制大学において、その課程を修了した者とする」とされた。そこで、協会執行部は医学会に働きかけ、日本耳鼻咽喉科学会、日本リハビリテーション医学会、日本音声言語医学会とともに、「ST身分制度合同委員会」を発足させる。1980年、厚生大臣宛に「言語聴覚士[ST](いずれも仮称) の資格制度制定に関するお願いの件」が、4団体名で提出される。1981年2月、厚生省で検討会が開催されるが、協会の主張する四年制大学案ではまとまらず、日本学術会議勧告を踏まえ、既存のリハビリテーション職と同様に、高卒3年の教育をベースにするという妥協案が浮上し、その業務も「医師の指示」とされた。 協会執行部は資格の実現が最優先と判断し、1981年3月15日、4月5日に臨時総会を招集し、妥協案の受け入れを提案した。しかし、会員の理解を得られず、「大学における3年以上の養成(医療短大以上)」という修正案を提案した。しかし、この修正案も、保証がないとして否決され、執行部は総辞職することになった。 協会の新会長には飯高京子が就いたものの、その後、協会内部では、国家資格制度の早期実現を目指すグループ(病院言語治療士連絡会)が活動を開始し、協会は事実上2つに分裂する。1985年に連絡会が「日本言語療法士協会」を創設し、「医師の指示下で業務を行う」、「養成は高卒後3年」とする医学会の路線に従った方針を決定した。他方で、厚生省もASHA副会長のモリス教授の憂慮をよそに専門学校認可を行った。1984年に福井医療技術専門学校言語聴覚学科(高卒以上)、名古屋福祉専門学校言語療法科(4大卒または医療資格取得者)、1985年に日本聴能言語福祉学院(4大卒または医療資格取得者)が認可された。 1987年1月、厚生省は3月の国会提出を目指して突如として新たな検討会を立ち上げるが、日本聴能言語士協会と、日本言語療法士協会、日本耳鼻咽喉科学会、日本リハビリテーション医学会の対立図式となる。その結果、「STは医師(歯科医師を除く)の指示の下に業務を行う」「養成は大学、高卒後3年の専門学校共に認める」などとする合意案が出されるも、今度はSTの職域が医療か教育かといった議論が起こり、国会提出は見送られた。 その後、日本の医療における言語聴覚療法の立ち遅れを問題視していた医学会側は、医療職としてのSTの資格制度の早期創設を目指して、1988年12月、日本医師会、日本歯科医師会を含む幅広い医学・歯科医学団体からなる医療言語聴覚士資格制度推進協議会を発足させる。この協議会には、日本言語療法士協会も加入した。 この頃になると、マスメディアでもSTの資格問題が大きく取り上げられるようになった。たとえば、『朝日新聞』1989年2月17日号の社説では、次のように論評された。「(前略)最も大切なのは実力のある人材を養成することだ。『頭数』だけを欧米並みにそろえればいいわけではない。スピーチセラピストは大変な創造性を要求される。なにしろ言語障害は百人百様だ。その一人一人の言語生活や心理状態に合わせて検査、訓練のプログラムを手作りしなければ効果が望めない。(中略)国民の信頼に答えられる、誇りのある専門職をつくり資格法が一日も早くつくられるよう期待する」。
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