日本聖教会
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日本聖教会(にほんせいきょうかい)はホーリネスの分裂の事件の結果、委員会側に分かれた団体。1936年に成立して、1941年の日本基督教団の成立の際に、第6部になり、日本聖教会の組織は消滅した。
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- 1 日本聖教会とは
- 2 日本聖教会の概要
- 3 参考文献
日本聖教会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:40 UTC 版)
しかし、その後神田事件や、中田側の民事訴訟によって、問題の解決は難航した。阿部義宗、渡辺善太、松山常次郎、星二郎などの仲裁努力が実って、1936年10月19日に和協分離が成立して、日本ホーリネス教会は解消した。そして、委員側の日本聖教会と中田重治側のきよめ教会に正式に分離することになり、12月25日分離した二つの団体は正式に発足した。米田は1936年11月28日、鉄道ホテルで行われた和協午餐会に委員の一人として出席した。その中で中田と和解した。その後は、中田派とは別の道を歩むことになる。聖書学院は中田側に渡り、日本聖教会は聖書学校塾を練馬区茂呂町に作り、米田は院長として指導者になった。また、機関紙『霊光』の主筆になった。 1941年6月の日本基督教団成立の際には、日本聖教会から第六部の常議員になる。第六部の代表は車田秋次が就任する。 1942年のホーリネス弾圧事件の際には教会指導者の一人として検挙される。2年の実刑判決を受けて上告する。早稲田警察署から巣鴨の東京拘置所に移される。1943年にホーリネス教会は解散し、日本基督教団より米田らホーリネス系の牧師は解任される。1944年4月に保釈されて出所するが、13年間中風で闘病生活をしていた先妻タケ夫人は、米田の入獄中に死去する。戦後は、しばらく埼玉県秩父に居住した。 1945年10月8日にアメリカ合衆国の放送で「車田、米田が殉教した。」というニュースが放送されたが、11月に車田が手紙をアメリカロサンゼルスにいた東洋宣教会の代表レテー・カウマンに書き送ったことにより、殉教が誤報であったことが分かる。
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