ホーリネス分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/06 01:59 UTC 版)
「東洋宣教会聖書学院」の記事における「ホーリネス分裂」の解説
1933年ホーリネス分裂事件が発生する。阿部義宗、渡辺善太などの仲介により、1936年についに中田重治側と委員側に和協協定が成立して、和協分離する。聖書学院は本来、東洋宣教会の所有であるが、中田の監督の長年の功績の故に、委員側の日本聖教会の了解のもとに、中田監督のきよめ教会の所有になる。聖書学院の五教授が去った後、中田側では聖書学院の体制を整えた。委員側は練馬区茂呂町に聖書神学校塾を開校した。 1945年米軍の空襲により、聖書学院と淀橋教会は焼失した。
※この「ホーリネス分裂」の解説は、「東洋宣教会聖書学院」の解説の一部です。
「ホーリネス分裂」を含む「東洋宣教会聖書学院」の記事については、「東洋宣教会聖書学院」の概要を参照ください。
ホーリネス分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 07:17 UTC 版)
1932年(昭和7年)聖書学院の新学期に中田重治の方針に従って講義して欲しいと、聖書学院の五教授(車田秋次、米田豊、一宮政吉、小原十三司、土屋顕一)に依頼した。車田、米田、小原と川端京五郎、板垣賛造は臨時総会を招集した。中田は、監督の承認を経ない総会は非合法であると見なして、10月19日付けで中田重治は五教授を解任して、10月23日中田は全国教役者会を非常招集した。 10月25日に淀橋教会で臨時総会が開かれた。議長が信徒の川端京五郎になり、書記が蔦田二雄になった。翌日、10月26日に中田重治の監督解職の案が上程され、それが全会一致で決定された。監督の代わりに、委員会制度が設けられ、五人に委員として、車田秋次、米田豊、菅野鋭、小原十三司、一宮政吉が選ばれ、この五人によってホーリネス教会が運営される事になった。 しかし、中田を支持する者も、半数近くあり、ホーリネス教会は二つに分離することになった。神田教会の所属をめぐる対立は新聞沙汰になった。 中田は臨時総会の決議を無効とする民事訴訟を起こす。1933年(昭和8年)4月24日東京地方裁判所で、臨時総会の構成について取り調べが行われた。 1934年(昭和9年)3月5日に東京地方裁判所において、赤木判事を中心として、双方の和解談が始まった。双方より三名の委員を選び、和解案を出す事になった。 1935年(昭和10年)11月28日正午、鉄道ホテルで和協午餐会を開き、ホーリネス教団の和協分離が決定された。1935年12月21日青山学院神学部講堂で和協委員の主催の元に和協報告感謝会が開かれた。 詳細は「ホーリネス分裂事件」を参照
※この「ホーリネス分裂」の解説は、「きよめ教会」の解説の一部です。
「ホーリネス分裂」を含む「きよめ教会」の記事については、「きよめ教会」の概要を参照ください。
ホーリネス分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/11 10:10 UTC 版)
1933年、中田重治の特殊な再臨信仰の指導のために、信仰上同調出来なくなった聖書学院の五教授(車田秋次、米田豊、小原十三司、菅野鋭、一宮政吉)は、中田監督側と委員側(五教授の立場を支持する)に分かれて対立した。1936年 和協分離が成立し、日本ホーリネス教会は五教授支持派の「日本聖教会」と中田支持派の「きよめ教会」とに和協分離した。
※この「ホーリネス分裂」の解説は、「ホーリネスの群」の解説の一部です。
「ホーリネス分裂」を含む「ホーリネスの群」の記事については、「ホーリネスの群」の概要を参照ください。
ホーリネス分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:40 UTC 版)
1932年第三総会後に淀橋聖会が行われ、「聖書より見たる日本」という題で5日間に渡って6回の講演した。中田は総統準備してみずからの日ユ同祖論を発表した。後に、米田と尾崎喬一らが筆記して出版した。米田は中田に才能を見込まれ速記を会得させられていた。さらに、3月に大阪放送で「聖書より見たる日本」を放送講演した。1933年9月22日に中田重治監督が、聖書学院五教授にイスラエルの民族の救いとそのために祈る日本民族の祝福を中心にする監督の方針にしたがって講義して欲しいという書簡を送った。五教授の米田と車田秋次、小原十三司、一宮政吉、土屋顕一はホーリネス教会の使命は個人の救霊であって、中田監督の新使命には一致できず、聖書学院の教授を辞すべきであるが、これは、全体の信仰問題に関わるので、教団の最高機関の総会を臨時に招集して、監督の新使命の是非の裁定を仰ごうとした。中田の承認の元に、米田ら総会常置委員は臨時総会を招集した。 しかし、中田は臨時総会開催の承認を取り消しして、非合法と見なし、非合法運動を推進したという理由で米田ら五教授を10月19日に解任した。しかし、臨時総会は淀橋教会で10月25日に開催された。中田は臨時総会に対抗して、全国教役者会を聖書学院に非常招集し、10月23日夕方までに役200名教役者が集結した。10月24日の朝に、総会が常置委員によって開かれるが、メソジストの監督審判法に従って非合法であること説明して、そのことの交渉を総会代議員である教職にゆだねた。臨時総会の席上で10月26日臨時総会の二日目に、中田重治の監督職を解任する案が上程されて全会一致で可決された。監督解任によって代わりに代行として委員会制度が設けられ、ホーリネス教会年則に付加された。車田秋次、菅野鋭、小原十三司、一宮政吉らと共に5人の委員に選ばれた。ここで、日本ホーリネス教会は二つに分裂した。その際、米田は中田の解任状を書いた。中田は信仰の相違で別れるのだから握手して別れたいと、車田秋次と握手をした。その夜、米田と車田、一宮、小原、菅野、鈴木仙之助の6名が中田邸を訪問して、共に祈り、敵意なく別れた。 詳細は「ホーリネス分裂事件」を参照
※この「ホーリネス分裂」の解説は、「米田豊」の解説の一部です。
「ホーリネス分裂」を含む「米田豊」の記事については、「米田豊」の概要を参照ください。
- ホーリネス分裂のページへのリンク