和協午餐会
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1936年(昭和11年)11月28日正午に鉄道ホテルで和協午餐会が開かれた。 中田側からは、中田重治、木田文治、中山量一、安藤仲市、藤久、そして、委員側からは、車田秋次、小原十三司、米田豊、一宮政吉、菅野鋭が出席した。和協委員からは、星島二郎、松山常次郎、阿部義宗、渡辺善太が出席した。 来賓には、橋本文部省総務課長、田川太吉郎、釘宮辰生、吉崎俊雄、松野菊太郎、日匹信亮、益富政助、加藤三郎、野畑新兵衛、青木運之助、川端京五郎であった。竹内検事は職務上招待を辞退し、土山鉄次は遠路の故に不参加であった。 中田重治と委員側は久しぶりに会見することになった。両者は握手して食堂に入った、食事後別室で、星島二郎が司会して挨拶した。星島の指名の元に中田は挨拶し、迷惑をかけたことを詫び、調停者の労を謝し、今後伝道活動に邁進したい旨を述べた。それに対して車田委員長もそれに応えて挨拶して、途中で病没した赤澤元造監督の労を感謝した。 次に松野菊太郎が指名された。松野はアブラハムが死んだ時に、イサクとイシュマエルが共に葬式を取り行い仲直りし、イサクが死んだ時はエサウとヤコブが共に葬式した例を引用して、中田が死ねばみんな一緒になるだろうと皮肉って語った。 釘宮辰生は、赤澤の代理に招かれたことを感謝した。橋本宗務課長は、星島の関係で、和協委員の会合が度々鉄道大臣邸で開かれたことから、鉄道のたとえ話をして、将来また一つになることを希望した。 松山常次郎の祈祷後に、中田の発案で手を打って讃美歌「歌えど尽きせぬ主のほまれ」を合唱した。そして、車田が中田の前に行って、握手をした。その後、益富政助も立ち上がって、和協分家だと言うと、拍手が起こった。
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