河辺満甕とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 宗教家 > 宗教家 > 日本の牧師 > 河辺満甕の意味・解説 

河辺満甕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/17 23:25 UTC 版)

かわべ みつかめ
河辺 満甕
生誕1897年7月29日
日本兵庫県淡路島福良
死没 (1970-05-09) 1970年5月9日(72歳没)
日本
国籍 日本
出身校関西学院ドルー神学校、グリーンビル・カレッジ、エディンバラ大学オックスフォード大学
職業牧師伝道者
河辺貞吉

河辺 満甕(かわべ みつかめ、1897年7月29日 - 1970年5月9日)は日本の牧師伝道者、教育者。

生涯

1897年(明治30年)兵庫県生まれ。河辺貞吉の長男として淡路島福良に生まれる。関西学院文学部卒業した後、1920年(大正9年)にアメリカ合衆国に留学しグリーンビル・カレッジに留学し、その後ドルー神学校で学んだ後、イギリスに渡りエディンバラ大学オックスフォード大学で学ぶ。その後、エルサレムのアメリカ東洋研究所員になり、W・F・オルブライトの指導を受ける。1925年(大正14年)帰国。林順と結婚し、関西学院文学部教授に就任する。のち予科長、高校校長、宗教総主事をつとめる一方、自由メソヂスト教会教職として牧会にも従事する。

1948年自由メソヂスト教会を離れ自宅を開放し開拓伝道を始め、単立千里山基督教会を設立する。1949年(昭和24年)関西学院を一時休職してカナダに渡りトロント大学で学び、1950年(昭和25年)には博士号を取得する。

1962年(昭和37年)に関西学院を辞職し伝道に専念する。1963年(昭和38年)河辺貞吉記念礼拝堂を建設する。産婦人科幼稚園、教会学校体育館、祈祷室、集会・宿泊所「シオン・ロッジ」などの建設を計画し、4500坪の丘陵を「シオンの丘」と名付け、施設の建設を行った。また、ケズィック・コンベンションや大阪朝祷会などの超教派の活動を行う。

晩年は、信徒教育のための「シオン聖書学校」を開校した。1970年(昭和45年)に死去する。

年譜

著書

  • 『概説旧約地誌』(1950年)
  • 『旧約の歴史』(1950年)
  • 説教集『千里山の声』(1971年)

関連項目

参考文献

  • 吉木裕「河辺満甕」『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年、340頁

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「河辺満甕」の関連用語

河辺満甕のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



河辺満甕のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの河辺満甕 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS