聖書学校
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聖書学校(せいしょがっこう, Bible college)とは、聖書学を教授する高等教育レベルの学校。神学校に類した教育機関で、教職者養成機関、信徒伝道者の養成学校、教団本部内の牧師養成学校という側面もある。聖書学院という名称も用いられている。日本の聖書学校では、いくつかは各種学校の認可を受けているものもある。
聖書学校の例
- 東京聖書学院, 柏木聖書学院(東洋宣教会、日本ホーリネス教団、日本ホーリネス教会淀橋教会、ホーリネス運動、東洋宣教会聖書学院、神田聖書学校と浅草伝道館)
- 東京聖書学校
- 中央福音伝道館聖書学校(日本ホーリネス教会)
- 中央聖書学校(中央聖書神学校)
- 福音伝道教団中央日本聖書学院(旧前橋聖書学寮、中央日本聖書学塾)
- ムーディー聖書学院(米国 福音派:ディスペンセーション主義)[1]
- ダラス神学校(米国 福音派:ディスペンセーション主義)[2]
- 北海道福音教会協議会(北海道福音伝道会)北海道聖書学院
- 日本福音同盟お茶の水聖書学院
- 日本伝道隊聖書学校(神戸聖書学校。現在、関西聖書神学校)
- エディンバラ聖書学校
- ベテル・バイブル・カレッジ
- クライスト・フォー・ザ・ネイションズ
- CFNJ聖書学院(クライスト・フォー・ザ・ネイションズ・ジャパン)
- シティハーベストチャーチ聖書学校
- コン・ヒー聖書学校
- 日本基督教団金城教会英語聖書学校
- 日本ナザレン教団熊本聖書学校
- ペンテコステ派ヒューストン聖書学校
- 芝和英聖書学校
- ノースフィールド聖書訓練学校
- 日本アライアンス教団聖書学校
- 保守バプテスト同盟仙台バプテスト神学校(超教派)(C-BTE Japanリソースセンター)[3]
- フィラデルフィア聖書学校
- ロサンゼルスBIOLA聖書学院(現在の、バイオラ大学)
- ロサンゼルス聖書学校
- 聖書キリスト教会信徒聖書学校
- ギレアデ聖書学校 (エホバの証人・Jw.org・宣教者を訓練する学校)
- キルヒベルク・アン・デア・ヤクストキルヒベルク聖書学校
- 東京基督教大学(総合神学科)
- 日本伝道福音教団新潟聖書学院
- 日本伝道福音教団軽井沢聖書学院
- 大阪聖書学院
- 生駒聖書学院(聖霊派)
- 東京キリスト教学園共立女子聖書学院
- 西日本福音ルーテル教会神戸ルーテル聖書学院
- ルーテル教会カリフォルニア・ルーテル聖書学院
- 聖書神学舎(聖書宣教会)
- 平塚福音キリスト教会活水聖書学院(キリスト伝道隊)
- 東洋福音教会聖書学院
- 同盟聖書学院
- 中田神学校
- 基督聖協団聖書学院
- エルサレム聖書学院
- 希望の教会希望聖書学院(Hope Seminary、ホープ・バイブル・セミナリー)
- 東北聖書学院(現在の、ルーテル同胞聖書神学校)
- 福音聖書神学校 [4](福音派:ディスペンセーション主義)
- チャーチ・オブ・ゴッド川崎聖書学院
- 日本福音自由聖書学院
- 神学校羽鳥聖書学院
- 日本同盟基督教団同盟聖書学院
- 南ウェールズ聖書学院
- スオンジ聖書学院
- トピカ・ベテル聖書学院
- リッジランド聖書学院
- 基督兄弟団聖書学院
- ウェスレー聖書学院
- 福音交友会福音交友会聖書学院
- 京都福音教会 / 日本ユナイテッド・ペンテコステ教会聖書学院併設
- 純福音聖書学院(現、韓世大学)
- ソウル神学大学校聖書学院
- 聖ステファノ・ドミニコ会聖書学院(Ecole Pratique d'Etudes Bibliques)
- ハーベスト聖書塾(福音派:ディスペンセーション主義)
- JTJ宣教神学校 (福音派)
- キリスト聖書神学校 (福音派:改革派神学)
参考
関連
聖書学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:40 UTC 版)
知り合いの奥田常三郎が東京府神田の東洋宣教会の聖書学校入学したことを聞く。さらに、機関紙焔の舌で聖書学院4月の開校を知る。そこで、米田は家族の反対を押し切り1901年(明治34年)5月に上京し、1ヶ月遅れで神田の聖書学校に入学する。修養生として訓練を受ける。聖書学校の教師の中田重治、チャールズ・カウマン、笹尾鉄三郎、三谷種吉などの薫陶を受ける。 1902年(明治35年)5月さらに6月に、第二回大挙伝道が行われた。その時中田重治は、三谷種吉の組織した修養生による福音音楽隊を率いて東北、北海道の各地を巡回した。その時、米田は福音音楽隊の一員として、大太鼓を叩く。8月には弘前で伝道した時には、後に日本メソジスト教会重鎮になる阿部義宗がキリスト教に回心する。 1902年の年末には修養生を五組に分けて実地伝道に派遣する。米田は、休暇を兼ねて藤樫と一緒に千葉県に派遣された。 1904年(明治37年)に20歳で徴兵検査を受け日露戦争に従軍する。1905年(明治38)に終戦後、本国に帰還する。その後、聖書学院に復学し、岩手県土崎へ伝道に派遣される。その時、小原十三司らに出会い、小原たちをキリスト教信仰に導く。 1908年(明治41年)に最初の妻白浜たけと結婚する。
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